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12月24日(月)
ホテル「レオマの森」に宿泊したのは初めてであった。 以前は高級リゾートホテルというイメージであったが,2010年に経営が「大江戸温泉物語」に移ってからは随分と庶民的な温泉リゾートホテルに変わった。
朝食前に朝風呂に入る。昨夜は5階が男風呂になっていたが,朝風呂は4階が男風呂に入れ替わっていた。大江戸温泉物語のプロジュースだけあって「レオマの森の温泉」は素晴らしい。特に今年の6月にオープンした大露天風呂「四季の湯」は,美しい自然林に囲まれ広々としている。湯に浸かりながら四季それぞれの美しさを満喫することができることだろう。岩風呂の脇には,韓国の済州島で見たトルハルバンの石像2体が置かれていた。
12月23日(日)
「レオマ花火ファンタジアクリスマスショー付プラン」という格安の宿泊プランを利用して,綾歌町にあるニューレオマワールドのクリスマスを家族で楽しむことにした。
ゴルフ場経営最大手・日本ゴルフ振興(株)の社長をしていた愛媛県出身の実業家大西一(1926~1994)が,テーマパーク「レオマワールド」をオープンさせたのは1991年4月であった。10年も経たない2000年に経営破綻し閉園した。
ニューレオマワールドは,「加ト吉」や「マルナカ」「おもちゃ大国」など香川県に本社を置く企業によって2004年にリニュアールして再開されたが,2010年からは日本最大の温泉テーマパーク「大江戸温泉物語」に経営が移っている。
私はこれまでにここを3回訪れている。旧レオマワールドが開園された年に2回,リニュアールされた年には高知県橋梁会で来た。その時には,ピカソなど世界の名画が展示された大西美術館があり,感動させられたものであったが,現在はそれもなくなっていた。
レオマワールドはクリスマスで大賑わいだろうと想像していたが,意外と入場者は少なかった。幼児を伴った家族連れがほとんどで若者の姿が少ないのが気になった。これでは経営が楽ではないだろう。
孫連れて レオマの森で クリスマス
12月18日(火)
高知県測量設計業協会では,年末に役員が県内の各土木事務所を訪問し,意見交換を行うことが恒例になっている。
幡多方面を回るのはいつも最後になるので,四万十市で泊まって反省会をすることになっている。今回の反省会は,四万十天神商店街の中にある居酒屋「なかひら」で行った。ここの商店街は,テレビ放送されているドラマ「遅咲きのヒマワリ」の舞台になっているところである。
「なかひら」で食べたカツオの刺身はもちもちし,驚くほど美味しかった。高知市で普段食べているカツオとは全然違う。
翌日このことを高知県土木部を退職し,今年の春に第一コンサルタンツの幡多支店に入っていただいた竹田弘氏に話すと,この店のご主人はニュー中村ホテルで板前の修業を積まれた方で,地元の料理大会では何度も優勝をされる腕前。カツオは兎に角鮮度が一番。私が食べたカツオは,当日の午後に漁師が釣ったものだろうという事であった。
中心地の商店街はシャッターを降ろした店舗が増えているが,ここも例外ではない。しかし「なかひら」だけは早くから予約をしておないと入れないほど繁盛している。
12月17日(月)
今年は例年になく仕事が忙しい。社員には夜遅くまで残業させ苦労をかけている。誠実で健気な社員に私の感謝の気持ちを伝えたいとの思いで社員一人一人に礼状を書き,それを「目を覚ませ日本!21世紀の龍馬よ!」の本に挟み,賞与と一緒にお渡しさせていただいた。
辰の暮 社員の笑顔 見て嬉し
12月14日(金)
18時30分より「国民宿舎桂浜荘」で「坂本龍馬財団歳忘れ大忘年会」があり,家内と一緒に参加させていただいた。
坂本龍馬記念館の森健志郎館長による開会の挨拶の中で,11月に出版した「目を覚ませ日本!21世紀の龍馬よ!」が既に1200冊売れている。来年は「台湾で李登輝と孫正義のお二人に坂本龍馬を語っていただく番組の制作を企画したい」という夢が語られた。
その後,台湾で李登輝事務所を訪問したときと同様に,竹内土佐郎先生による「龍馬甚句」,OTOGI(河村泉兵衛,金子裕則)による歌「友へ」が披露された。
「友へ」は最近リリースされたばかりの曲。坂本龍馬が西郷隆盛と桂小五郎に薩長同盟を結ばせた場面をイメージして書かれたそうである。歌の中に「シェイクハンドしいや 拳を広げて重ねや」という文句が出てくる。このときには左右の人と手をつないで一緒に歌う。
嶺北高校3年生の大石すみれさんも母親,妹と一緒に参加し挨拶をされた。坂本龍馬記念館の20周年記念事業の一環として,「WHY RYOUMA NOW?」(今,なぜ龍馬か?)をテーマにしてアメリカニューヨークで開催されたフォーラムにおいて,大石さんは「過疎化が進むふるさとを何とかしたいという思い」を英語でスピーチしている。彼女の父親は,本山町の町議会議員をされていた大石直哉さん。次の町長として期待されていた人物であったが,昨年病気で急逝した。
乾杯の音頭は,シェイクハンド龍馬像を製作した彫刻家の西本忠男先生。森館長から,李登輝事務所を訪問したとき,秘書の方から真っ先に聞かれたのが,「西本忠男さんは来られていますか?」であったというエピソードが披露された。李登輝は,西本先生からプレゼントされた楠の木の龍馬像をとても気に入られて,自宅の一番大事な場所に飾っておられるのである。
会場の壁に「21世紀の龍馬よ!」と墨筆で書かれた畳4枚もある大きな作品が展示されていた。書道家・竹内先生が書かれたもので,東京の銀座で開催される書道展に出品されるとのことであった。正月には私にも書いてプレゼントしていただけるとおっしゃっていただいた。わが家の家宝になる。
最近リリースされたOTOGIのCD「RYOMAからの手紙」の中には,「RYPOMAからの手紙」「蒼い風」「友よ」の3曲が入っている。歌詞カードの中に,「友へ」Secial Thanksの一人に右城猛の名前が書かれていた。
仏教用語に「多逢勝因」という言葉がある。良い人と交わっていると,気がつかないうちによい結果に恵まれるという意味であるが,「坂本龍馬財団」は正にそのような集まりである。
年忘れ 龍馬財団 朋集う
12月12日(水)
夜明けが遅くなった。6時15分頃にならないと明るくはならない。6時20分に家を出てアリーナの周りの農道を一周する。以前は25分くらいであったが今は30分かかる。
早朝に 妻とジョギング 指凍え
13時30分より今年度最後となる高知県橋梁会の研修会。①道路橋示方書コンクリート橋編の改訂について,② 最近の予防保全技術工法材料について,③ 高知市内の橋梁長寿命化計画,④ 橋梁大型補強改良工事とその事例,⑤国土強靱化について講演をしていただいた。
道路橋示方書が11年ぶりに改訂され,今年の3月に発刊された。12月2 日には維持管理時代の幕開けのような出来事が発生した。中央自動車道の笹子トンネルの天井板が崩落し9名が死亡したのである。12月10日には高知県が10mメッシュの地形データを用いた南海トラフ巨大地震による津波浸水シミュレーション結果を公表した。今後はその具体的な対策が求められる。
橋梁会のプログラムは10月に確定していたのであるが,今回の講演テーマはいずれも時宜を得たものであった。
参加者は例年より少ない55名であった。この時期にこれだよく集まってくれたというのが正直な思いである。コンサルタントは震災復興予算の恩恵で十数年振りに人手不足の状況にある。どこの会社も社員は不眠不休で働いているのである。
年の暮れ 橋梁会に 朋集い
12月11日(火)
昨日,尾崎知事が高知県版第二弾となる南海トラフ巨大地震による震度分布・津波浸水予測を公表した。それが今朝の高知新聞のトップ記事として一面を飾っていた。今年の8月24日に内閣府が公表した最大クラスの地震をもとに,最新の10mメッシュの地形データや構造物データを反映してシミュレーション解析した結果である。
過去の歴史から高知県が近い将来巨大地震に襲われることは間違いないが,津波浸水深や地震発生から浸水するまでの時間がはっきりわからないと対策のたてようがない。今回の公表によって高知県内の地震対策に火がつくことだろう。また,高知県では地価の下落が続いているが,揺れや浸水深さが大きい場所は地価の下落がいっそう進むことだろう。
高知県の予測によると,第一コンサルタンツは震度7の揺れが約3分間続き,30~40分後に津波に襲われ2~3m浸水することになる。
私は,東日本大震災発生の3ヶ月後に宮城県の被災地を13名の社員と一緒に視察し,地震後にも事業が継続できる会社にすることを決心した。いよいよ行動を起こす時である。会社創業50周年を迎える来年の11月29日には,安全で安心して働ける職場環境とするための具体的な青写真を社員に示すことにしよう。
12月10日(月)
今年一番の寒さ。寒波の影響で零度を下回った。布団から出るのが苦痛である。
日経コンストラクションの記者から電話で笹子トンネル天井板崩落事故に関する取材があった。コンクリートアンカーが抜けたことに関して意見を求められた。現場を見ていないのでテレビ等の報道で得た情報でしか判断できないと断った上で,質問に対して下記の回答した。
・130mも崩落している。この間のアンカーすべてに問題があったとは考えがたい。アンカーが抜けたことが直接の原因とは思えない。
・35年前に会計検査でトンネル巻立て厚さの不足を指摘されている。地山が風化し粘土化していたことが原因と報じられていた。過大な土圧によってトンネルが変形したことも考えられる。
・アンカーボルトを二次部材と見なすのはおかしい。天井版はサイドで支持されているのみであり,アンカーボルトが抜けると構造的に不安定になる。そうすると重大な人身事故につながる。一次部材と考えるべきである。
・アンカーボルトに作用する荷重は,常時作用する主荷重である。地震時や風荷重のように安全率を小さ目にはしていないと思う。
・土木では,エポキシ樹脂系のアンカーボルトは,落橋防止の橋座拡幅や落橋防止装置の取り付け,側道橋を既設の橋梁に後から添加場合のブラケットの取り付けなどに使用されている。私が設計で常時引き抜き力が作用する箇所に使用した例は思い浮かばない。
・施工時には引き抜き試験を行って,アンカーボルトの降伏強度以上の力を作用させても引き抜けないことを確認しているはずである。
・35年が経過している。この間にエポキシ樹脂の劣化,常時引き抜き力が作用しているのでクリープの影響なども考えられる。
昨夜,東京に住んでいる娘と孫を連れて我が家に帰ってきた。
孫の祐希 は1歳9ヶ月。「じいちゃん」「ばあちゃん」と呼んでくれる。大好きなのは新幹線。iPadを操って新幹線のyoutubeを観るのが大好きである。特に,佐藤弘道が「はしるよ はしるよ しんかんせん ぼくらをのせて(GO!GO!GO!)」と歌う「走るよ!新幹線!」がお気に入り。何度も何度も飽きることなく繰り返し観ている。その集中力にはびっくり。
私の夢は,孫に論語を読ませること。先月,長崎に行った際に孔子廟で「親子で楽しむ こども論語塾」(安岡定子)を買ってきていたので,早速それを祐希 に読んで聞かせる。
年の瀬に 孫に論語を 読み聞かせ
12月8日(土)
義父・友岡稔が満90歳で大往生を遂げたのは、昨年の12月11日であった。義父が眠る小平聖地セントソフィアに、私達と兵頭信二さんの家族が集まって1周忌の法要をする。その後,和食レストラン「梅の花国分寺店」 に移動して会食をする。
このような素晴らしい家族に恵まれ幸せな日々をおくることができるのは,義父のお陰であることを改めて感じ,感謝しなければならないと思った。
12月7日(金)
第一ホテル東京の1階ロビーで理工図書の志賀氏と打ち合わせをしている最中に、グラグラと揺れ出した。しばらくすると大きく横揺れがはじまった。誰も避難行動をする様子はなく平然としていた。東京ではこれくらいの揺れには皆慣れているのかもしれない。しかし,この後20分間は携帯電話が混雑してどこにも全く繋がらない状態であった。
三陸沖を震源とするM7.3の地震で,最大震度は5.3。東京都は震度3(江東区など一部は震度4)。海溝の外側(アウター)が震源となった「アウターライズ地震」だそうで東日本大震災の余震とのこと。
インドネシアのスマトラ沖で今年の春に起きたM8.6の大地震も,8年前に23万人の死者を出したあのスマトラ沖地震(2004年,M9.1)の余震とされている。
東北地方は東日本大震災によりトラフ沿いのひずみが解放されたので,今後しばらくは大きな地震の心配はないと思っていたが,これは大きな間違いであった。
12月6日(木)
鹿島建設四国支店の小池博孝部長と尾﨑美伸部長が揃って年末の挨拶に来られた。話の中で,社員に対する精神教育が話題になった。
「鹿島建設には,"できないとは言うな,できる方法を考えよ","仕事を道楽にしろ"という教えがある。何かをしようとしたときに頭に浮かぶ。暗唱をさせられたわけではないが,社員にはこの言葉が染みこんでいる」という話を聞かせていただいた。
鹿島守之助が社長をされていた1938年頃に作られた「事業成功の秘訣20箇条」である。鹿島の社員の行動指針になっている。
第1条 「旧来の方法が一番いい」という考えを捨てよ。
第2条 絶えず改良を試みよできないといわずにやってみよ。
第3条 有能な指導者をつくれ。
第4条 人をつくらぬ事業は亡ぶ。
第5条 どうするかを研究せよ。
第6条 本を読む時間をもて。
第7条 給料は高くせよ。
第8条 よく働かせる人たれ。
第9条 賞罰を明らかにせよ。
第10条 なるべく機械を使うこと。
第11条 部下の協力一致を計れ。
第12条 事業は大きさよりも釣り合いが肝心。
第13条 なによりもまず計画。
第14条 新しい考え、新しい方法の採用を怠るな。
第15条 一人よがりは事を損ず。
第16条 イエスマンに取り巻かるるなかれ。
第17条 欠陥は改良せよ。
第18条 人をうらまず突進せよ。
第19条 ムダを見付ける目をもて。
第20条 仕事を道楽とせよ。
12月5日(水)
高知会館で高知県測量設計業協会の役員会と臨時総会があった。臨時といって毎年の恒例行事になっている。
総会の後の懇親会で,顧問の武石利彦高知県議会議長から挨拶をいただいた。その中で,「県議会議員になる以前の青年会議所時代から,高速道路を須崎から西に延伸させる運動の先頭に立ってきた。
12月9日に,念願の中土佐-窪川間(14.8キロ)が開通する。高知県議会議長として開通式のテープカットができると思うと感慨深いものがある」と語られた。
須崎新荘-窪川間(21.8キロ)の整備計画は,平成8年に決定されたものの道路関係4公団の民営化で一次断ち切れになっている。平成15年に関係者の努力が実って,国と県の負担による「新直轄方式」として整備されることが決定した。
武石様をはじめ,関係者の苦労は大変なものであったものと想像される。本当にお疲れ様でした。
自宅への帰り,中央公園のイルミネーションが目に入った。高さ17mのクリスマスツリーがひときわ目立って輝いていた。
12月3日(月)
19時から高新RKC ホールで,衆議院議員総選挙高知一区からの立候補予定者による公開討論会があった。30分前に会場に入った。座席は半分も埋まっていなかった。討論会が始まっても7割程度の入りであった。
高知県ではA級の建設会社が独占禁止法違反で公正取引委員会から排除措置命令を受けて,選挙活動を自粛している。出足が悪いのはそのせいだろう。
日本維新の会の藤村慎也氏は,党の方針で欠席されていた。民主党の大石宗、自由民主党 福井照、日本共産党 春名直章の3名で討論会が行われた。
コーディネーターは高知青年会議所理事長の森本道義氏。原発問題、尖閣諸島問題などの質問に対して各候補者が意見を述べるという形式で討論が進められた。
今月の2日,中央自動車道の笹子トンネルでコンクリート製の天井板が落下し,通行車両を押し潰して9名の犠牲者を出した。完成から35年が経っていた。老朽化が原因と言われている。維持管理時代の幕開けを予感させるような出来事である。
一昨年の東日本大震災,昨年9月の紀伊半島豪雨災害,今年7月の吸収豪雨災害と次々に自然災害が発生している。近い将来,最悪の場合には全国で32万人,高知で4.9万人を超える死者を出す巨大地震が南海トラフで起こると予測されている。
政治の最大の目的は,国民の生命と財産を守ること。そして,豊かな暮らしができる国土を作ることにある。災害に強い国土を整備すること,荒廃したアメリカの轍を踏まないために社会資本の維持・補修を計画的に進められる人に政治の舵をとっていただきたいものである。
11月30日(金)
10時より日本技術士会四国本部役員会,13時より松山全日空ホテルで日本技術士会四国本部愛媛例会があり明坂君と一緒に参加する。
愛媛例会の公開講座では,元NHKアナウンサーで萬翠荘館長の八木健先生による「俳句と萬翠荘」,世界的宇宙進化の研究者で愛媛大学宇宙進化研究センターの谷口義明教授による「宇宙への招待」の2つの講演があった。
八木先生の話は,俳句とはなにか,俳句上達のコツ,俳句の作り方など。
俳句上達の三多は,「多く読み,多く作り,多く捨てる(推敲する)」。暗唱すべき100の名句が紹介された。その中に,「入学の少年母を掴む癖」という句があった。作者の右城暮石(ぼせき)は,私の祖父の従兄弟。故郷の小字名「暮石(くれいし)」を俳号にしているのである。
事前に配布されている資料の中に書かれている季語の中から一つを選び,その季語から連想する言葉を用いて俳句を作る方法を教えていただいた。
私が無造作に選んだ季語は「春の川」。連想した言葉は「メダカが泳いでいる」。「メダカ」は夏の季語なのでダメ。「小さな魚」にする。できた俳句は「春の川 小さな魚を 泳がせり」。 一句詠んだだけで俳人の気分になった。
最後に,「上手な文章を書くコツは?」という私の質問に対し,「結論を先に述べる,具体的に述べる ,センテンスを短く する」と教えて下さった。
そっさく一句,「技術士が 俳句教わる 年の暮れ」(猛)
「天文学者の日々」,「宇宙進化の謎」など多数の著書がある谷口先生のお話は,「宇宙は膨張している」「宇宙は一つでない 」「50億円後に太陽は死ぬ 」「1000億年後には宇宙膨張が進行して何も見えなくなる 」など最新の研究から得られた知見であった。私の思考領域からあまりにもかけ離れすぎている。想像することすら困難であった。
懇親会ではアトラクションとして,本家野球拳の三代目家元,四代目家元,その奥さんと1歳の可愛い五代目が出場し,本場の野球拳を楽しませてくれた。
11月27日(火)
以前から親しくお付き合いさせていただいている応用地質(株)技師長の上野将司氏が,わが社の西川徹次長の元上司というご縁があり,社内勉強会の講師をしていただいた。
「斜面防災に取り組んで(設計のヒント)」と題し、これまで従事されてきた仕事の内容,仕事に取り組む姿勢などを語っていただいた。
「ここの水を抜けば地すべりは必ず止まる,首を掛けても良い」と,言い切れる技術者が世の中にどれほどいるだろうか。現地を歩き,いろいろな地すべりを自分の目で実際に見て対策工を提案し,多くの成功事例を積み重ねてこなければこのような発言はできない。 「現地を見る→仮説を立てる→矛盾がないか検証する→論文にする」という姿勢を貫いてこられたことがよく理解できた。
講演を聴いた若い社員の中から,上野さんに続く技術者が育つことを願っている。
11月24日(土)
松山市の城山公園やすらぎ広場で開催されている「えひめ・まつやま産業まつり すごいもの博2012」に,渡部徹・和子夫妻の珈琲豆屋「Aloha」が出店すると聞いていたので覗きに行く。豆を挽いて販売するだけでなく,焙煎したコーヒーを飲ましてくれるサービスもしていた。目玉は一杯1,000円のコピ・ルアック。コピ・ルアックとはジャコウネコの糞から採れる未消化のコーヒー豆のこと。ジャコウネコの腸内の消化酵素の働きや腸内細菌の発酵によってコーヒーに独特の香味が加わわっている。「Aloha」で取り扱っているのは,世界一高い幻のコーヒーと言われているアラビカ種のコピ・ルアック。
昨夜,居酒屋「和座ダイニング茶蔵」で食事を一緒にさせていただいた金村紀子先生も来られており,一緒にコーヒーを飲む。
11月23日(金)勤労感謝の日
以前からの念願であった古川勝三先生にお会いできた。初対面であったにも関わらず,喫茶店で1時間,さらに松山全日空ホテル14階のバーで2時間半にわたり八田與一のこと,本の執筆の経緯,マスコミ情報の信頼性等について貴重なお話を聞かせていただいた。
烏山頭ダムなどを作り台湾人から嘉南大圳(かなんたいしゅう)の父と呼ばれ,教科書でも紹介されている八田與一のことを,先生が「台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯」という本を執筆されるまで,日本では全く知られていなかった。
この本は,我々土木技術者に誇りと夢を与えてくれる。チャンスがあれば一度お会いし,先生から八田與一のことを直接お聞きしたいと思っていたのである。
昨日,日本プロテクトの加賀山社長から,土木技術者「宮本武之輔」の銅像完成記念式典を紹介した愛媛新聞記事がメールで送られてきた。記事の中に古川勝三先生の名前を見つけ,以前,酒の席で私が「八田與一のことを書かれた古川先生にお会いしたい」と話したことを思い出し,気になったからということであった。日本プロテクトの社員の高市君が,古川先生の住所と電話番号を調べて送ってきてくれたので早速電話をさせていただき,今日の面談が実現したのである。
11月21日(水)
高知じばさんセンターで13時より高知県測量設計業協会主催の平成24年度第3回技術講習会「道路土工指針改定」。定員100名のところに102名の申し込みがあったが,参加者数は76名であった。
演題と講師は,「軟弱地盤対策工指針の改訂について」をサン土木コンサルタントの和田達夫氏,「擁壁工指針の改訂について」を私,「高知県道路構造物等標準設計マニュアルについて」を高知県土木部道路課の道倉直樹氏が担当する。
11月19日(月)
高知県立坂本龍馬記念館の森健志郎館長から写真の本が送られてきた。
「台湾の李登輝さんの病気が治ったと。今度,台湾へ行くが,一緒に行かんかよ?」
森館長の呼びかけで,「坂本龍馬財団」と「にんげんクラブ」の35名が,今年の7月23日に台湾を表敬訪問した。
淡水の李登輝事務所で私たち一行のため90分レクチャーしていただいた李登輝さんの講演録と参加者35名の手記を綴った235ページの新書(定価1,000円)である。 その中には「こんな方が日本のリーダーであれば!」と題する私の拙文も紹介されている。
1ヶ月後に森館長から電話があり,高知市内のレストラン「味味膳」に呼び出された。フリーライターの広末智子さんがテープおこしをした李登輝さんの講演録を校正するためであった。森館長を中心に,土佐塾高校の佐々木裕校長,写真家の角田和夫氏,広末智子さんと一緒に,8月29日と9月5日の二日間,18時から23時まで食事をしながら議論した。それがこの本になったかと思うと喜びもひとしおである。多くの人に読んでいただきたい。
発行所 一般財団邦人坂本龍馬財団
〒780-8040 高知県高知市神田1676番地 TEL088-802-8934 FAX088-845-1721
11月18日(日)
11月15日は坂本龍馬の177回目の生誕記念日。今日は龍馬の誕生日を祝うイベントが桂浜で行われた。
1つは「Let's Go! Hand-in-Hand!!」。桂浜には84年前に建立された坂本龍馬像と高知県立坂本龍馬記念館設立20周年を記念して昨年できたシェイクハンド龍馬像がある。桂浜龍馬像からシェイクハンド龍馬像まで500mの間を500人が握手でつながろうというイベント。全国から900人を超える龍馬ファンが集まった。中谷元衆議院議員,尾﨑正直知事も参加されていた。
10秒前からカウントダウンが始まり,午前8時32分,900人によって桂浜龍馬像とシェイクハンド龍馬像が結ばれた。そして,坂本龍馬記念館の森健志郎館長が「龍馬さんに誓う現代こころ八策」を唱え,それに続いて全員が唱和した。
~龍馬さんに誓う~現代こころ八策
1.家族を大切にしよう。
2.お年寄り,先生を敬おう。
3.友だちと仲良くしよう。
4.思いやりの心を持とう。
5.正々堂々と歩もう。
6.志は高く持とう。
7.勇気を持って行動しよう。
8.レッツ ゴウ ハンド イン ハンド (手をつないで前に進もう)
午前10時からは,高知市桂浜公園で,龍馬さん誕生日おめでとう巨大バースデーケーキ,和太鼓 大集合,シャモ鍋振る舞い,お~い!!龍馬!!大声コンテスト,よさこい鳴子踊り,餅投げなどのイベントが行われた。
→詳細
11月16日(金),17日(土)
第18回目の西日本技術士研究・業績発表年次大会が倉敷で開催された。近畿本部,中国本部,九州本部,四国本部の持ち回りで開催されており,来年は高知市で開催される。四国では平成15年に松山市,平成21年に徳島市で開催されているが,高知は初めて。主催は日本技術士会四国本部であるが,実質的には高知県技術士会が準備や運営をすることになる。来年の大会に備えて家内と一緒に参加した。
13時からのテクニカルツァーは大原美術館と倉敷美観地区の街並みの見学。18時からは倉敷アイビースクエアで日本技術士会の内村好会長も参加されてレセプション。
17日は9時半から倉敷文芸館アシアターで式典,10時から岡山大学の馬場俊介教授による基調講演。11時から「社会貢献活動への技術士の役割」をテーマに論文発表があった。
→詳細
11月12日(月)
午前中の空いた時間を利用して日本最古の道路橋出島橋,長崎港,興福寺(こうふくじ),崇福寺(そうふくじ),亀山社中,聖福寺(しょうふくじ)を見物する。
11時30分,ホテルセントヒル長崎で,長崎林業コンサルタントの吉留会長,陣野専務,津田部長に昼食をご馳走になる。
13時より林業コンサルタント主催の「平成24年度森林土木技術研修会」がホテルセントヒル長崎であり,「落石に関する最近の話題」と題して講演。
夜は,稲佐山の展望台から長崎の夜景を楽しむ。モナコ,香港,長崎が世界三大夜景と言われている。
→詳細
11月11日(日)
8時半にワシントンホテルを出発。中島川に架かっている石橋を見学する。11の石橋のうち6橋が1982年の長崎水害で流出,眼鏡橋,桃渓橋,袋橋が半壊した。半壊した3橋は復元されたが,流失した6橋は石橋を藻としたコンクリート橋になっている。
長崎くんちで有名な諏訪神社,長崎歴史博物館を見学。午後は12時長崎駅前初の定期観光バスで,長崎原爆資料館,長崎平和公園,出島,孔子廟,大浦天主堂,グラバー園を見て回る。
→詳細
11月10日(土)
10時より高松市のホテルパールガーデンで中国本部・四国本部意見交換会があり,出席した。テーマは,「会員の増強と県支部設立」であった。
日本技術士会は会員の地位の向上を目指している。その大きな取り組みは組織率の向上であるが,依然として20%と低い。最近は会員の高齢化による死亡,不景気などで退会があり組織率は上がっていない。
技術士は国家資格であるが,弁護士や医師のような業務独占資格ではない。建設コンサルタント業だけは,技術士資格が必須のため業務独占に近い。このようなことから,会員には圧倒的に建設部門技術士が多い。
しかし,技術士資格は必要であっても日本技術士会に入るメリットがないという理由で,入会希望者は少ない。最近は,建設会社の技術士の退会者が増える傾向にあるようである。
13時より地域産官学と技術士との合同セミナー「東日本災害から見る危機管理のあり方について」があった。
高松駅14時40分発のマリンライナーで岡山,岡山から九州新幹線「さくら」で博多,博多から「かもめ」で長崎に行く。長崎駅着は19時52分。新地町のワシントンホテルに泊。
11月9日(金)
「若手技術者による右城社長を囲む会」が大手筋の料理屋「海ぼうず」であった。
「世界でいちばん小さな三つ星料理店」という単行本を読まれた20代の若手社員が集い,料理を食べながら本の感想を述べ,今後の夢を語ろうという会である。設計部の西川次長と総務部の恒石課長が企画してくれた。
いま会社はとても忙しい。若手社員は夜遅くまで残業をしている。このような状況下で本を読むことも,集まることも仕事の足かせになる。少し暇になってからがよいのではないかと意見を述べたのであるが,社員が楽しみにしているということで予定通り開催した。
予定していた14名全員が参加してくれ,一人一人が感じたこと,将来への思いを熱く語ってくれた。家族を守りたい,幸せにしたいという社員が何人かいた。素直で誠実で心優しい社員ばかりである。この若い社員が立派な技術者に成長するようにしてあげたいと改めて思った。
11月8日(木)
地盤工学会から出版予定の「落石対策工の設計法と計算例」の第1回編集委員会のため、東京に行く。
13時からの委員会まで時間に余裕があったので、10月1日にオープンしたばかりの東京駅丸の内駅舎を筒井社長、加賀山社長と一緒に見物に行く。大正時代の開業時の姿に生まれ変わった東京駅を一目見ようとカメラを持って訪れている観光客が多い。
記念に、東京ステーションホテルのロビーラウンジで一杯1,250円のコーヒーを満喫する。
11月4日(日)
高知工業高校で開催されている「ありがとう100年!高知工業博」に(株)第一コンサルタンツからパネル展示を,高知県測量設計業協会からGPS測量機器やノンプリズムトータルステーション機器のデモ等を行っていたので家内と連れだって見物に行く。
11月3日(土)
竹内綱・竹内明太郎親子が明治45年に高知工業学校を設立。それから100年が経った。10時より高知工業高校の体育館で,創立100周年記念式典があったので出席した。
物故者に黙祷した後、開会の辞,国歌斉唱,校歌斉唱,宮地彌典記念実行委員長挨拶,平田健一校長式辞,小島教育委員長挨拶,来賓祝辞,記念事業紹介,生徒代表挨拶,閉会の辞が滞りなく行われた。
来賓の一人,竹内明氏は、創立者竹内明太郎のひ孫。元総理大臣の吉田茂は明太郎の実の弟。「明太郎のことは知らないが,明という字と頑固な性格を受け継いでいる」とユーモアを交えた挨拶があり,さすがはTBSテレビ「総力報道!THE NEWS」のキャスターを務められているだけあると思った。
祝賀会は7時30分より新阪急ホテルであった。400名の参加者で,会場は身動きがとれにくいほど盛会であった。
宮地委員長,平田校長の挨拶があった。共に感動する素晴らしい内容であった。平田校長の挨拶で、高校は全国に600校あり,今年100周年を迎えるのは5校で84番目の開校。100周年を迎える企業には,シャープ,ヤンマー,大正製薬,JTB,四国ガスがあるということを知った。
100周年記念式典,祝賀会に参列させていただき思ったことは,竹内綱・明太郎父子が「工業は国の基」という理念で設立した学校で学ばせていただいたことに感謝し,学んだ技術を高知県の発展に活かさなければならないということである。
鏡割りの後,伊藤彰介君がリーダーを務める吹奏楽の演奏があり,校歌,高校三年生などが披露された。
平田健一校長、伊藤祥介君は共に同級生。元気に活躍している姿を誇らしく思った。
10月31日(水)
毎年行っているコンクリート製品に関する勉強会が今年は高知会館であり、全国から70人が高知に来られた。高知会館で懇親会をした後、30名が「濱長」に繰り出して高知のお座敷遊びを楽しんだ。県外の方をここに案内すると、本当に喜んでくれる。
濱長には4人の芸妓がいるが、公的イベントに華を添えるためあちこちに行っているので滅多に4人は揃わない。この日も2人は岡崎高知市長らに同行して韓国木浦市に行っているということであった。韓国木浦市で3千人の孤児を育てた高知市出身の故・田内千津子さんの生誕100周年記念事業に参加するためである。
10月24日(水)
四国銀行と四国キャピタルリサーチ共催の経営講演会が18時より高知市文化プラザかるぽーとであり、ロイヤルコンサルタントの伊藤文夫君と一緒に参加させていただいた。講師は小説家の江上剛氏。演題は「時代を生き抜く経営力」。第一勧銀での勤務などご自身の体験に基づいた話であった。
江上氏の冒頭の挨拶で驚いたことが2つあった。1つは「四国には何度もきているが高知は初めて」、2つは「マラソンをしている。ベストタイムは3時間46分」と言われたこと。
今年の3月に四国では初めてとなる日本技術士会の地域本部長会議が高知であった。会場が高知になった理由は、日本で唯一足を踏み入れたことがない高知に行きたいと内村会長(鹿児島出身)が言われたため。観光地としては人気があるが、産業がないので仕事で来る機会のない県なのだろうか。
最近ノーベル賞に輝いた山中伸也教授もマラソンをしており、今年3月の京都マラソンのタイムが4時間3分。二人とも超多忙であるにも関わらず素晴らしいタイムを持っている。始められた動機も同じで、仕事に追われウツ状態になっため。
私がマラソンを始めたのは平成19年。社長に就任した年である。9月頃から全身に湿疹が出始めた。皮膚科や内科に通ったが治らないのに、糖尿病対策としてジョギングを始めたところ新陳代謝が良くなったためか湿疹が消えたことがきっかけである。今思えば、ストレスが原因だったのだろう。
先日の四万十川ウルトラマラソン100kmの部の優勝は、男子・女子とも医師。最近マラソンブームになっている。医師など多忙な人が多い。ストレス解消に抜群の効果をもたらすためだろう。
10月19日(金)
21日に開催される四万十川ウルトラマラソン100kmの部に出場するため,石川県から勘田益男氏が高知に来られた。
現在は,斜面防災研究所を経営されて居いるが,以前は吉田博先生が作られた建設コンサルタント「エィ・シィ・ディ」で働いておられたのが縁で,20年来のお付き合いさせていただいている。2002年には,理工図書から「落石対策工設計マニュアル」を出版されている。
50歳頃からマラソンの魅力に取り憑かれ,1年間に10のマラソン大会に出場されているそうである。出場するたびに結果がメールで送られてくる。
四万十川ウルトラマラソンは初めての出場であったが,わずかのタイムオーバーで,完走できなかったようである。
10月16日(火)
平成24年度土木技術技術職員基礎研修が高知県建設技術公社であり、講師をする。研修テーマは「擁壁等の構造物設計」。研修対象は、採用後3年目(22年度採用)の高知県職員22名。
今年の7月31日に「道路土工-擁壁工指針 平成24年度版」が発行されたこともあり、指針の改訂内容を中心に説明をさせていただいた。
10月11日(木)
昼は、馬場夫妻に案内していただき、丸亀城、世界のガラス館などを見学する。
夜は、昨夜に続き金刀比羅宮の例大祭御神幸に火消筒持として参加する。今日は、9時にご神体が入った御神輿が神事場を出発し、石段を785段登って本宮に帰る「おのぼり」。パートナーになる松明持の斉藤博之氏の顔で、御神輿のすぐ前が与えられた。火消筒持では最高のポジションである。
10月10日(水)
讃岐のこんぴらさん(金比羅宮)では、毎年10月10日、11日に例大祭(れいたいさい)がある。そのメインイベントの御神幸(おみゆき)行列に火消筒持役で参列する幸運に恵まれた。
平成18年以来、正月には、こんぴらさんに参拝することを恒例にしている。しかし、例大祭の御神幸とはどういうものか何も知らないまま、馬場義幸・千津子夫妻のご厚意により参加させていただいた。
夜の9時、ご神体が乗った御神輿が本宮を出発し、麓の神事場まで約2キロの道のりを3時間かけて進む。10日の御神幸は「おさがり」と呼ばれている。
9月29日(土)
日本三景の一つに数えられている松島を見物する。
塩釜港を9時発の遊覧船に乗り、仁王岩、鐘島、みさご島など奇岩でできた島々を見物しながら松島港に行く。途中、遊覧船から「えびせん」を差し出すと、それをめがけて沢山のカモメ(ウミネコ)が群がってきた。
松島では、瑞巌寺、五大堂を見物する。瑞巌寺本堂(国宝)は修理のため非公開になっていた。津波は松島湾に260余りある島々によって減衰され、本堂までは到達しなかった。瑞巌寺は伊達政宗によって1609年に建立されたが、そこには1326年に建立された円福寺があったと言われており、869年に起きた貞観地震津波の経験が活かされていた可能性がある。
津波は境内の途中まで押し寄せたため、境内に植えられていた杉が枯れ、伐採していた。津波が来ると海水が地中に染みこむので、塩に弱い杉などは枯れてしまう。
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9月27日(木)
今日はゴルフ班8名と視察班7名に分かれる。
8時、貸切バスでホテル法華クラブ仙台を出発。松島国際カントリークラブでゴルフ班を降ろし、東北自動車道を北に走る。一関ICを降りて県道19号から国道343号を走って陸前高田で国道45号に出る。
国道45号を南下しながら陸前高田の沼田跨線橋、道の駅高田松原、気仙大橋、気仙沼市、小泉大橋、歌津大橋、JR清水橋、南三陸町防災対策庁舎を視察する。
復旧の進捗状況は、今年の7月17日に視察したときと、どこもあまり変わっていない。
夜は仙台市内の「稲荷小路のまるさんかくしかく」で親睦会をする。高知県測量設計業協会の旅行は、7年振りとあって大いに盛り上がった。
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9月26日(水)
道路渋滞のため約束より30分遅れの10時、女川町役場を訪問。県会議員から今年町長になられた須田善明様、町の担当職員から被害状況と復興計画の説明を聞く。死者・行方不明は827人(8.2%)、全壊・半壊家屋は3271棟(74%)。被害率では女川町が一番であった。復興計画は女川町が一番進んでいる。町民の80%近くが被害を受けているので合意を得やすかった。UR都市機構にコンストラクション・マネージャーになってもらい、設計から施工管理までを一貫してやってもらうCM方式で計画が進められている。8年間で新しい町をつくる計画というお話であった。
その後、女川町廃棄物選別処理施設を見学させていただく。女川町の震災廃棄物は44万トン。1次選別されたものをここで、リサイクルするために細かく再選別している。6万トンを東京都で処分してもらうため、放射能濃度測定をしている。放射能の搬出基準は0.01μSv/hであるが、3月から8月の測定データでは、0~0.003µSv/hと非常に小さい。
ゴミの処理費用は1トン当り3万7~8千円もするというお話であった。女川町は福島から遠く離れている。6ヶ月間の放射能データを見る限り全く問題ない。それにも関わらず、安心を確保するために東京都に搬出するゴミは全て放射能検査をすることになっているという説明であった。そこまでする必要があるのか、多くの費用をかけて細かく選別してまでリサイクルする意味があるのか疑問に感じた。
午後は、技研製作所の戸田課長に案内していただいて、石巻の地盤沈下による高潮冠水対策工事現場などを見学。その後、前県会議員の佐々木喜蔵様に案内していただき北上大橋に行き、宮城県東部土木事務所の古藤野弘副所長様から災害復旧工事を説明をしていただく。7径間のトラス橋の左岸側2径間が津波で流失した。ヒロセのプレガーダー橋で応急復旧がされていた。橋が架かっている国道398号は交通量の多い重要路線であり早期の復旧が望まれていた。河川管理者である国交省の許可が得られ、昨年10月に仮橋が完成したという説明であった。
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9月25日(火)
今日から28日まで高知県測量設計業協会で東北視察旅行。参加者は協会員のみ15名。8名は協会役員。
高知空港から伊丹空港で乗り継いで仙台空港に入る。昼食は「伊達の牛たん本舗東インター店」。貸切バスの窓から外の景色を眺めると、東部道路を境にして、西側の田んぼでは収穫を待つ稲穂が黄金色に輝いているが、東側は雑草で覆われている。除塩のため作付けが行われていないのである。
昼食後、名取市の森下武浩技術主幹に案内していただき、閖上を視察する。がれきが撤去され、昨年の6月に見たときとは様変わりしていた。被災された地元民に復興計画を分かり易くするために、実際に嵩上げ盛土を部分的にしたり、パネル展示がされていた。嵩上げ高は現地盤より3.9m。5年間で300万m3の盛土をするという説明を受けた。
14時50分からは1時間半にわたり、仙台市内のホテル「パレス宮城野」で宮城県測量設計業協会と地震津波防災に関する意見交換会。菅井会長、庄司副会長、西條技術・経営委員長、高橋事務局長様からは、当事者でなければ分からないとても貴重なお話を伺うことができた。
想定外の出来事が次々に発生するので、事前に準備してあった防災対策マニュアルが役に立たず、県との災害協定も機能しなかった。災害査定で要求されることが担当査定官によって異なることや、国の方針が変わることによって手戻りが多かった。本震で受けた被害が余震で拡大した際は、再調査して査定資料を修正することが求められるがそれに要する費用は見てもらえないという話も伺った。
10月から宮城県測協でマニュアルや災害協定に関して検証・総括し、それを報告書としてまとめるというお話であった。
宮城県測協の皆様は、昼夜なく寸暇を惜しんで復旧作業に当たっておられる。それにも関わらず、我々のために立派な資料や高価な被災写真集を準備してくださると共に、貴重な時間を割いて下さった。本当に内容が濃い有意義な意見交換会であった。
宿泊は、仙台の奥座敷秋保温泉の緑水亭。 山の上に建てられた鉄筋コンクリート8階建ての立派な構造であるが、3.11東日本大震災では被害を受けたようである。被災状況の写真が展示されていた。
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9月22日(土)秋分の日
サーキット場「モーターランドたぢかわ」で2回目となるコンクリート防護柵の自動車衝突実験をした。その帰りに「旧立川番所書院」を見学する。
旧立川番所書院は、200年以上昔の寛政年間に建てられたもの。昭和49年に国の重要文化財に指定されたが、建物の傷みが激しく、昭和55年から解体復元工事が行われ、昭和58年に現在の建物が完成している。
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9月16日(日)
馬路おしどりマラソン大会に出場した。4度目である。
これまではマラソン当日の朝、家を出発していたのであるが、今年は前日に、兼清英則・芳子夫妻(山口県光市)、村上順一・志津子夫妻(神戸市)、渡部徹・和子夫妻(松山市)と一緒に馬路温泉に宿泊した。
32回目となる今年の参加申込は3kmが90組、5kmが66組(出場は53組)。合計156組、312人。
私たちのタイムは36分58秒。53組中の41位。非常に悪い。明らかに練習不足である。ちなみに、昨年は34分37秒、一昨年は32分44秒。老化が進んでいるので少しでも練習を怠るとタイムが落ちる。
9月10日(月)
滞在しているホテルの横隣にあるアンダーウォーターワールドに行く。300万リットルの海水を入れたトンネル式水槽にサメやウミガメ、巨大エイなど約100種類、2000匹の海洋生物が生息している。1歳5ヶ月になる祐希 も大喜びであった。
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9月9日(日)
いつもの通り5時に目覚める。グアム時間は6時。既に外は明るい。タモンビーチを家内とランニングする。波打ち際は砂が締まって固いのでとても走りやすい。西表島の三原から由布島に水牛車で渡ったことを思い出した。水牛車が通っても轍ができなかった。どちらも珊瑚礁である。砂の性質が同じなのだろう。
夕食は、ホテルニッコーグアムでポリネシアンダンスを見ながらサンセットバーベキューを楽しむ。天気に恵まれ夕日の沈むタモン湾がとても綺麗であった。
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9月8日(土)
夏期休暇のため家族でグアムに来る。グアムは会社の慰安旅行で2000年に来て以来である。1歳5ヶ月の祐希は初の海外デビュー。
グアム国際空港に14時30分(日本時間13時30分)に到着。ホテルはタモン地区のアウトリガー・グアム・リゾート。ホテルに着くなり目の前のタモンビーチに飛び出す。海がとても綺麗である。
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