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2月25日(火)
金村先生ご夫妻と一緒に薬膳料理レストラン「土佐養生膳 加尾の庭」で、食事をする。
今年の正月、カンボジアからの帰り、ハノイ空港で偶然ご夫妻にお会いした。松山からのチャーター便でベトナム観光をして帰るところであった。
その時に、先生たちは四国八十八カ所霊場巡りをされていると伺って、高知に来られたときには加尾の庭で一緒に食事をしましょうと約束をしていたのである。
金村先生は気功の研究をされている。奥様はヨガの先生である。薬膳料理に詳しく、開店してまだ1年にも満たない「加尾の庭」をご存知であった。気功を学んでいるグループの間では有名なようある。
加尾の庭は、前・四国運輸の社長で、坂本龍馬財団の理事でもある小川雅弘氏が、自宅を改装して昨年の3月3日にオープンしたもの。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」で、坂本龍馬初恋の人「平井加尾」が住んでいた場所として紹介されてから、一躍脚光を浴びるようになった。それまでは、小川氏もご存知なかったようである。
ここには、小川氏が趣味で全世界から集めた水晶がたくさん置かれている。驚かされるのは、重さ1.6トンもある巨大水晶の原石「アースキーパーPちゃん」。遠路ブラジルから運送してきたというもの。Pちゃんが鎮座する部屋の四隅には大きなアメジスト・クラスターが置かれ、床には水晶が敷き詰められている。客間には、大きな水晶玉、水晶の剣、水晶鉢、巨大な水晶原石に五匹の龍を彫刻した作品などが飾られている。サツキやサクラが植えられた400年の歴史をもつ庭園には六角堂がある。その床にも水晶が敷き詰められている。
昨年の4月に台湾の元総統・李登輝さんの秘書をされている小栗山雪枝さんとここで食事を一緒にさせて頂いたとき、彼女がものすごく強い気を感じると話されていた。金村毅先生も、六角堂で頭が痛くなるほどのパワーを感じると言われた。
水晶は、エネルギーの波動を増幅させる働きがあるようである。しかし、私も含め他の3人は何も感じることができなかった。周波数が水晶の周波数とずれているのだろう。
私が唯一強烈なパワーを感じたのは、トイレに入ったときであった。入り口の鴨居の上に取り付けられていた遠赤外線ヒーターからの熱風であった。
2月22日(土)
姪の磨希と橿尾裕樹君の結婚式が、高知市はりまや町の「オワゾブルー高知」であった。家族、親戚そして友人に見守られながら執り行われるシビルウエディングであった。
披露宴は、見事な花を咲かせた盆梅が並ぶ得月楼の二階大広間で行われた。
式と披露宴のプロジュースは、「カリヨン高知」であった。和恵の結婚式からもう6年以上経つが、カリヨン高知のスタッフは私たち家族のことをよく記憶してくれており、心遣いも素晴らしく感動させられた。
近年、結婚式が減っている。少子化の影響もあるが、独身者の比率が増えている。デフレ不況の影響か、価値観の変化なのか分からないが、結婚しても入籍するだけで、式や披露宴をしないカップルが増えている。これらが原因になっているのであろう。
磨希と裕樹君も昨年の4月に結婚している。結婚式を挙げる予定がないという話であったので、昨年の9月に二人を高知に呼んで、私の兄弟とその家族で食事会をさせてもらった。そのときの私たちの話を聞いて、結婚式、披露宴、そして新婚旅行をすることになったようである。これらは、一見、無駄なように思えるが、家族や友人たちとの絆をより深くすると共に、信頼できる仲間の輪を広げていく上で極めて大事な行事である。
今日の二人を見ていると、家族や友人たちに支えられていることの幸せと有り難さを心から実感したように思えた。ハワイへ新婚旅行することで、二人の愛は未来永劫に朽ちることがない盤石なものになることだろう。
2月16日(日)
マラソンの人気が高まっている。今日は全国各地で市民マラソン大会が開催されている。高知でも第二回高知龍馬マラソンが開催され、北は北海道、南は沖縄から参加があった。その数は、昨年の3475人を大幅に超える4853人(エントリーは5586人)。完走者は4,559人。
昨日は、全国的な大雪のため飛行機は欠航、四国の高速道路は通行止め、東名高速では大渋滞など陸・空のダイヤが大幅に乱れたが、それでも大勢のランナーが高知に来てくれた。有り難いことである。
次女の怜佳は、友人の竹内稚賀さんと一緒に参加。二人とも初のマラソンであったが5時間48分で完走。甥の右城祐介は3時間1分。我が社の北澤聖司君は5時間12分。スタートの号砲が鳴ってからゴールするまでのタイムで、これが正式な記録となる。
ICチップで測定されるスタートラインからゴールまでの実際のタイム(ネットタイム)はもっと短い。スタートで後方に並ぶほどスタートラインを通過するまで時間がかかる。甥の祐介の場合は3秒。怜佳は5分36秒。このタイムがネットタイムに加算されたものが記録となる。恥ずかしながら、実際のタイムが参考に過ぎないことを今回初めて知った。
高知龍馬マラソンでは、前日の高知新聞に参加者全員の氏名が、また後日には、完走者全員の氏名とタイムが掲載される。→写真
2月11日(火)建国記念の日
3日間小雨か曇りの天候が続いた。沖縄最後の日になって快晴。気温も高い。最後になって南国・沖縄を実感することができた。
恩納村にある琉球の伝統文化や芸能を伝えるテーマパーク「琉球村」に行く。ここには、2006年の年末に家族で来ている。飛行機の時間の関係で、見学できたのは2時間弱であった。
アクシデントは最後の日にも見舞われた。那覇空港14時10分発の飛行機が故障。搭乗していた飛行機から降りて別の機材に乗り換え、出発は15時45分に変更。実際に離陸したのは2時間遅れの16時10分であった。幸いにも、高松空港からユメタウン高松までの空港リムジンバス、ユメタウンから高知までの高速バスは待ち時間なしに乗車でき、高知一宮着は20時であった。
ホテルのチェックアウトの際、いつもの習慣で、クレジットカードで精算をしてしまった。帰高して家内に指摘されてはじめて、8000円分のクーポン券を使わなかったことに気がついた。もったいないことをした。何とついていない旅か。
2月10日(月)
日本最大の水族館「沖縄美ら海水族館」を見学。毎年、250万人を超える入館者があると言われているだけあって館内は大混雑であった。入館者には韓国人が目立った。
ここの大水槽「黒潮の海」で泳ぐ巨大なジンベ鮫は、何度観ても迫力がある。
今日の夕食は、ANAスカイツリーのクーポン券を利用して、万座毛の対岸に建つ白亜の総合リゾートホテルANAインターコンチネンタル万座ビーチリゾートで、ビュッフェ形式の沖縄郷土料理を食べながら、琉球芸能ショーを堪能する。
2月9日(日)
今帰仁村(なきじんそん)古宇利島(こうりじま)と名護市屋我地島(やがじじま)を結ぶ古宇利大橋は、2004年に竣工した橋長1,960m、25径間のPC橋。無料の一般道路では日本一長い。土木屋として、この橋を知らないのは恥とばかり見学に行く。立派な土木技術者になるだろうと期待している祐希は橋に全く関心がない。興味があるのは浜の砂だけ。
昨年の11月に完成したばかりの古宇利オーシャンセンターを見物し、明治時代の民家を修復した建物が営業している沖縄そばと琉球料理の店「大家・ふうやー」で沖縄そば定食の昼食。そしてナゴパイナップルセンターを見物する。
2月8日(土)
孫の航希が生まれて4ヶ月が過ぎた。2月8日から3泊4日の日程で和恵たち一家と旅行することにした。一緒に旅行するのは、1年5ヶ月前のグアム以来である。行き先は沖縄。ホテルは、恩納村の冨着ビーチのそばにある「カフーリゾートフチャクコンドホテル」。コンドスタイルの部屋に3連泊し、ここを拠点にレンタカーで移動して、古宇利島、美ら海水族館などを見物する予定。すべて和恵の計画。
私と家内は、高松空港11時30分発のANA457便、和恵たちは羽田空港11時5分発のANA131便に搭乗し、那覇空港で合流する予定。昨夜来の雪で高知道の南国・川之江間が通行止めになっていたので、高知駅7時発の列車しまんと4号に変更する。高松駅に着いたのは1時間10分遅れの10時30分。
最近は四国で積雪を見ることは滅多にないが、昔はこの程度の雪は珍しくなかった。わずか数センチの積雪で列車の運行にこれほど影響するとは意外であった。JR四国の経営状態は良くない。合理化によって保守点検がおざなりにされているのではないだろうか、昔の保線技術は継承されているのだろうか。
高松駅から空港までは路面バスで1時間かかる。飛行機に間に合わない。ネットで調べると、高松空港発のANA457便は3時間遅れの14時30分発に変更、羽田発の131便は「出発地悪天候のため天候調査中」という表示。運航するかどうか検討中ということ。和恵たちは行く気満々。例え1日遅れでも沖縄に行くという連絡が入った。天気予報では、東京は夜にかけてさらに雪が降る。出発が遅れるほど状況は悪くなる。心配していたが、15分遅れの11時20分に飛ぶことが決まったと連絡があり、ホッとした。しかし、実際に飛行機が羽田を飛んだのは、さらに1時間遅れて12時半であった。高松発の131便も羽田からの到着が遅れたため、出発できたのは15時30分であった。
沖縄に到着していた朋男さんたちが、レンタカーで空港まで迎えに来てくれ、ホテルに到着したのは19時になっていた。2010年に完成したカフーリゾートフチャクコンドホテルは、ホテル棟とコンドミニアム棟からなる12階立ての巨大ホテル。私たちが宿泊したのは、ホテル棟のスタンダードフロアーにあるラグジュアリースタイルの部屋。
リビング・ダイニングルーム、ベッドルーム、キッチンがある部屋は、まるで高級マンション。電話をすれば、ホテルのレストランから料理を配達してくれるので、部屋の中でリッチな夕食ができる。子供が騒いでも他の客に迷惑をかけることがない。幼児がいる家族には最適である。宿泊客には我々のような幼児連れ家族が多かった。 →詳細
2月4日(火)
島田建築設計事務所の島田晴江所長,efリードの竹内茂樹社長たちと得月楼で新社屋建築の打合せをする。
老舗料亭・得月楼は明治3年,松岡寅八が「陽暉楼」として上の新地(玉水新地)で創業した。明治11年、中秋の名月の日に西南の役から凱旋した将軍谷干城(たにたてき / たにかんじょう)の帰国祝いをかねて観月会を開催。 その時、谷干城が,北宋の時代に蘇麟(スーリン)が詠んだ漢詩「近水楼台先得月、向陽花木易為春」(水辺に近い高閣は先に月を得る、太陽に向いている花木は春になりやすい)から「陽暉楼」を「得月楼」と命名した。
明治25年に下の新地(稲荷新地)へ移転。松岡寅八は,料亭「松鶴楼」を買い取って本店とすると共に,「中店」,「花壇」などの支店を次々につくったが,とも戦火で消失した。
現在の得月楼は昭和25年,中店跡に建築士・柳生済の設計で再建されものである。
得月楼には,松岡寅八が明治30年頃から集めた樹齢200年以上の紅白の盆梅が約300鉢ある。梅の季節にはこの盆梅が大広間をはじめ各部屋に飾られる。盆梅を観賞しながら「梅見弁当」を食べるのがこの時期の大きな楽しみである。
2月2日(日)
高知市の天気は晴れで気温20゜C。春の陽気である。久し振りに徒歩で五台山に登る。山頂に着いたのは12時。自宅からの所要時間は1時間20分。
聖武天皇が,文殊菩薩の霊場として名高い唐の五台山と似た霊地を日本国内で捜し,そこに伽藍を作るようにと僧・行基に命じた。行基が選んだのが標高146mのこの山(=五台山)であった。724年のことである。
竹林寺は,土佐二代藩主山内忠義によって1644年に建設されたものである。ここには何度も来ているが,本堂の中に入ったことはなかった。入館料を払って名勝庭園と宝物館を見学する。素晴らしい。
竹林寺の本尊・文殊菩薩は724年に行基が謹刻したと伝えられている。ご本尊は秘仏であるため50年に一度のご開帳と定められていて今年がその年に当る。春は4月25日~5月25日,秋は10月25日~11月25日にご開帳が特別公開される。
山頂にある「眺めのいいカフェ・パノラマ」(現代企業社)でスープカレーの昼食をとり,自宅に帰り着いたのは15時であった。軽く汗を流すには丁度良い散策コースである。
1月30日(木)
春野文化ホール「ピアステージ」で公益社団法人高知県建設技術公社が主催する第14回高知県建設技術研究発表会があった。高知県測量設計業協会からは技術委員長の私が審査員として毎年参加している。
例年は10編ほどの研究発表があるが,今年は7編と少なかった。道路ストック総点検などで県市町村職員やコンサルタントが異常に多忙であったことや,2年前の入札談合による建設会社の営業停止などが影響していると思われる。
最優秀賞を射止めたのは,「海岸段丘の急傾斜地が近接した地域における津波避難計画の策定」と題して発表された第一コンサルタンツの山内佐恵さん。審査員6名全員が満点を付け、堂々の一位であった。「住民目線で業務に取り組んでいる」「津波防災マップが分かり易く工夫されている」というのが審査員の共通した評価であった。
彼女は学校で土木工学を学んだ技術者ではないが,防災計画やGISの仕事に対する熱意と情熱は人一倍持っている。論文の執筆,研究発表ははじめての経験であったが,堂々として見事なプレゼンテーションであった。フロアーからの二人の質問に対しても的確に回答していた。
彼女に「おめでとう」と声を掛けると,「しんどかった,発表はもういい」という返事が返ってきた。忙しい仕事の合間を縫って,精一杯頑張ったのだろう。プレッシャーで苦しかったに違いない。「頑張れば必ず結果がでる,評価される」ということを体験し,一回り大きく成長した。時間が少し経てば今回の達成感・満足感をもう一度味わいたくなるに違いない。
新型万能細胞STAP(スタップ)細胞を作った若き女性研究者・小保方(おぼかた)晴子(30)さんの論文が、英科学誌ネイチャーに掲載された。いま、この話題で日本国中が盛り上がっている。奇しくも同じ日に山内佐恵さんが最優秀賞に輝いた。女性が活躍する時代の到来を予感させる出来事である。
1月28日(火)
文京区千石にある地盤工学会の地下会議室で「落石対策工の設計法と計算例」の第5回目となる編集委員会を開催した。
この編集委員会は,「落石対策の調査・設計・施工に関わる実務者を対象に、落石調査、落石運動の予測、危険度判定、落石防護工の選定、設計法について施工事例や失敗事例、数値計算例を交えてより具体的に分かり易く解説した本を出版する。技術的課題があり工学的判断にるよらざるをえないものについては、そのことを明記し、将来の課題解決に向けた研究を促すようにする」ということを目的としている。
編集委員,執筆者合わせたメンバーは24名。最終回となる今回の委員会には19名の方に参加していただいた。1次原稿はほぼ出揃ったが,各章の査読,文章表現や書式の統一などの作業が残っている。
編集委員や執筆者はいずれも現役の一流技術者や研究者で,組織の中では重要な立場にある方ばかりである。多忙な日常業務の合間を縫って原稿執筆をしていただいているのであるが,平成25年度はアベノミクスの効果で建設業界はかつて経験をしたことがないほど多忙であり,皆様には本当に苦労をおかけしている。
学会の理事会の承認を経て委員会が正式に立ち上がったのが,平成24年9月である。当初の目標は平成25年度内に出版する予定であったが,日常業務をしながらこの期間で終わらせるのは少し無理であった。しかし,今年の3月末までには原稿の査読を終え,5月にはなんとか出版したいと考えている。
1月26日(日)
最近、家内がはまっている大衆演劇に付き合って、浅草木馬館に行く。1月公演は、人気スター大川良太郎が座長を務める「劇団九州男(くすお)」。
昭和30年頃、農閑期になると田舎の公民館に旅役者の一座がやってきて、国定忠治などの芝居をしていた。そのうち映画が上映されるようになり、そしてテレビへと娯楽の中心が移っていった。どさ回りの劇団は絶滅したものと思っていたが、近年になって大衆演劇の人気が高まっている。年寄りだけでなく若い女性も多い。1つの劇場で1ヶ月間、毎日昼夜2回の公演があるが、毎回演目が異なるため、ひいきの劇団が来ると毎日通うファンもいる。家内は今日から東京にいる間、毎日大川良太郎を見に行くと言っていた。
3年ほど前から全国に次々と専用劇場がオープンしている。現在の劇場数は全国に35軒。大阪には12軒ある。四国は2 軒。香川と愛媛にできている。韓ドラが一時ブームになっていたが、俳優との距離が遠いという不満があった。そんなおばちゃん連中に火をつけたの大衆演劇。
大衆演劇は舞台と観客が一体となって楽しむことができる。役者の台詞が決まったとき、客席から"ハンチョ(掛け声)"が実にタイミング良く発せられる。役者と観客の息がピッタリ合っていないとできない。
人気劇団の条件は、芝居や舞踊が上手なことは当然であるが、座長が若くイケメンであること、観客の反応に合わせたアドリブの台詞や客いじりがおもしろいこと、ファンサービスがよいこと。劇団数は100くらいある。トップクラスの劇団になると演じられる芝居や踊りは1000種類ほど持っていて、観客の反応に応じて変更するというからすごい。1ヶ月公演で観客動員数は7千~1万人になる。観客の入りが悪いと、次の年には劇場からお呼びがかからなくなる。劇団は生き残りをかけて必死に芸を磨き、演出や衣装を工夫し、ファンサービスに努めている。
大衆演劇は、役者の顔見せ、人情芝居、舞踊ショーから構成されている。顔見せと舞踊ショーの際には写真撮影が可能である。携帯電話やスマホでとりまくり、気に入った写真を仲間にラインで送り感動を共有することで、ファンの層が広がっている。
舞踊ショーでは、観客がお目当ての役者にプレゼントを渡す。すごいのは「はな」。ご祝儀を入れた袋を役者の胸元に差し込んだり、一万円札をそのまま役者の着物の襟にクリップではさんだりする。隣に座っていた中年の女性は、10枚クリップで挟んでいかにも満足そうな顔をしていた。大川良太郎の胸元には1万円札30枚が菊の花のように取り付けられていた。自分の金をどのように使うかはその人の勝手であるが、もう少し有効な使い道があるだろうにと思った次第。
演劇を観た後は、隣の浅草寺で会社繁盛、そして社員と家族の健康を祈願する。
1月25日(土)
朝一番の飛行機で家内と東京へ。東京プリンスホテルで「致知 創刊35周年新春特別講演会」に出席するため。講師の顔ぶれは、昨年、満80歳でエベレスト登頂の偉業を成し遂げた冒険家・三浦雄一郎、80歳でなお且つベストセラーの小説家として活躍されている五木寛之、人間力養成誌「致知」の代表・藤尾秀昭の3氏。
開演は12時15分であるが開場の11時に行くと受付にはすでに長蛇の列ができていた。二階の鳳凰の間に、全国各地から定員の1000名を超える1250名の致知ファンが集まった。
「夢をかなえる力 80歳、挑戦!」と題する三浦雄一郎氏の講演は、飲み放題食い放題生活を続けていたら60歳の時に身長は165cmしかないのに体重は88kgまで増え、標高500mの札幌藻岩山にも上れない情けないメタボになっていた。父親は95歳から97歳の間に3回も骨折したがそれを克服し、99歳でモンブランの山頂からスキーで滑走して世界を驚かせた。それに触発されてエベレスト登頂を決意。歩くときは左右の足首に5kgの重り、背中のザックには25kgの重りを入れて訓練した。出張で出かける時は、代々木の事務所から東京駅までその格好で歩いた。心臓の血管が60%詰まっていたが、江坂先生に二回の手術をしてもらい治療した。半月板損傷で膝を悪くしていたが、76歳の時に半月板が3.8mm復活していて医者を驚かせた。
70歳。75歳、80歳でエベレスト登頂に成功した。「あきらめなければ夢は叶う」「できない理由を思い浮かべるのではなく、できることは何かを考えて、最後の最後まであきらめないことが大切」「あきらめずに努力をしていると奇跡が起きる」「85歳にヒマラヤの8201mの山頂からスキーで滑走することを夢見ている。どうせやるなら命がけで人生を楽しみたい」という感動的な話であった。
「いまを生きる力」と題した五木寛之氏の講演は、「鬱」にどのように対処すればよいかという話であった。日本人の1000万人が鬱などの精神障害にかかっている。癌や腰痛の原因はストレスと言われている。すべての原因がストレスと言われるようになり昔は周辺医学であった精神科が医学の分野の花形となっている。鬱のときは心が萎えているとき、しなっているときである。柳のように心がしなることで、折れないためである。いつも頑張る必要はない。といった話であった。
五木寛之氏は三浦雄一郎、石原慎太郎、大島渚、青島幸男、岸惠子、野村幸恵などと同じ花の7年組。昭和7年生まれ。激動の時代に生まれ、環境が強い人間が育むのだろう。
最後の藤尾秀昭代表の講演は「先達に学ぶ」。三浦雄一郎氏と五木寛之氏の共通点は、50代に二人とも仕切り直しをした。三浦氏はメタボに反省して一念発起した。五木氏は断筆して4年間龍谷大学で学んでいる。それが後半のエネルギーになっている。老衰、老害という言葉があるが、老練、老熟にならなければならない。
人間には専門的知識を持つ横軸の価値観だけでは、ぶれてしまう。縦軸の価値観を持つ必要がある。それには、古典・歴史・人物の研究が必要。「損得よりも尊徳を」「志を立てる力」が必要。
致知が創刊35周年目に10万部を突破した。森信三先生は、10万部を突破すると国が変わると言ったが、本当に変わりだした。35周年記念式典で来賓挨拶された下村博文・文部科学大臣が、「国会の中に致知の勉強会「木鶏クラブ」をスタートさせることにした。来年から学校に道徳の授業を復活させる。その際には道徳を「人間学」と改めたい」と話された。
特に印象に残ったのは、大塚製薬創業者の大塚正士会長から教えられたという話。「会社の成長は雪だるまのようなもの。雪だるまをいくら一生懸命転がしても、小さいうちはなかなか雪が着いてこない。しかし、直径が1メートルくらいになると、片手でポット押すだけでサーッと雪がついてサーとついてきます」。
この会への参加は初めてであったが、期待していた以上に大きなエネルギーをもらった。来年は社員も伴って来たいと思った。
1月24日(金)
18時30分より高知県技術士会の定例会。参加者は23名。いつもは高知会館で開催していたが、講演などの企画がなかったので会場を「土佐卓袱料理の店 葉山」にした。
高知県技術士会を14名の会員で設立したのは昭和61年10月であった。今年は28周年を迎える。当時の会員で残っているのは、村山保、山本克彦、中村和広、橋口孝好と私の5名だけ。春、秋、冬の3回定例会と称して料理店に集まり、杯を交わしながら各自が1分間の近況報告をして情報交換をしながら親睦を深めていた。そのときによく利用していたのが、「葉山」であった。今日ような立派な建物ではなかったが、会費は今と変わらず一人5000円で飲み放題。参加予定者が欠席すると、レジをしていた店主にお願いして、料理に関係なく人数分だけに負けてもらっていた。
今日は、昔の流儀で定例会を行った。参加者全員がスピーチをすると、その後の宴会の盛り上がり方が違う。堅苦しい講演などやるよりは、このスタイルが技術士会には向いている。
昨年末に理工図書から出版した「土木技術に魅せられて」を会場に5冊持って行っていた。希望者が多かったので阿弥陀くじに当たった方に贈呈させていただいた。
医大を退院したばかりであったので一次会で切り上げ、1時間かけて自宅まで徒歩で帰った。これからもこのスタイルを貫こう。
1月22日(水)
今年の定期検診で副腎ホルモンの異常分泌の疑いが指摘された。63年間も体を酷使しているとどこかにガタがくる。1月に入って時間がとれたので14日に高知医大に検査入院した。以前から,直腸ポリープ,食道ポリープの疑いもあったので,この機会に徹底的に調べてもらうことにした。
心電図,胸部レントゲン,上部内視鏡(胃カメラ)による食道・胃・十二指腸検査,下部内視鏡による大腸・S字結腸・直腸検査,鼻咽腔ファイバー検査,副腎のCT検査,血液・尿検査など余すことなく行った。
血液検査で一部まだ結果が出ていないものもあるが,持病の糖尿病以外はすべて問題なし。入院中は,3度の食事前と就寝前の21時に血糖値を調べる。散歩などの運動をすると血糖値は110から120台まで下がるが,食事をしなくても内視鏡検査をしたときや,夜遅くまで原稿を執筆したときなどは上がる。どうも私の場合,ストレスが血糖値に影響しているようである。内視鏡検査の時に大腸が過敏症であるという指摘を受けたことから考えても,私の肉体は膵臓も含めてストレスに敏感に反応しているように思える。私にとってはストレス対策が課題である。
医師は,散歩程度は良いがマラソンのような過激な運動は避けた方が良いという意見であったが,善し悪しは単に年齢だけで判断出来ないはずである。リハビリ科で心電図と運動前後の心拍数を測定して貰った。心拍数は平時70,ランニングマシンで1km運動した後の心拍数は150。リハビリ科の先生の診断は,10km程度のマラソンなら全く問題なしとのこと。
栄養士の先生からは,腹八分目で和食を中心に毎食500キロカロリーを守り,ビールなら350ml,焼酎のお湯割りならコップ一杯に抑えれば良いというアドバイスもいただいた。
10日間の検査入院はとても有意義であった。健康を維持して長生きするにはどうすれば良いかが分かったような気がする。問題は頭で理解していてもそれを実行できるかである。明日退院する。頑張ろう。
1月19日(日)
1月14日より高知医大に検査入院している。心電図,レントゲン,胃カメラ,CT,血液検査などをしたが,持病の糖尿病以外はいまのところ問題はなさそうである。
病室にはインターネット回線も来ている。快適に仕事ができる環境にあるが,部屋に閉じこもっていると健康に良くない。日曜日でもり,天気が良いので散歩に出かけることにした。
県道384号(旧・国道32号)を東に歩くと歴史民俗資料館への上がり口がある。さらに東に進むと,「別宮八幡宮」(べっくはちまんぐう)の鳥居が立っており,山の上に向かって参道が真っ直ぐ伸びていた。まるで天空に通じる道のようである。コンクリートで固められた石段を300段上がると,立派な社殿があった。高知に長い間住んでいながら,全く知らなかった。
長宗我部元親は,1591年に高知市長浜の浦戸城へ移るまで,岡豊山の岡豊城を本拠にしていた。長浜には「若宮八幡宮」がある。浦戸に移る前には岡豊の八幡宮で戦勝祈願をしていたようである。
1月12日(日)
家に閉じこもって原稿を書いていると疲労がたまる。気分転換するため久し振りのジョギングにでかけた。いつもの東部運動公園の周囲である。偶然,高知市消防団の出初式に出会った。黒潮アリーナの中で古式はしご隊員による「古式はしご操法」の演技が行われていた。鳶口らよって支えられた高さ7mのはしごの上で,はしご隊員が手足を広げたポーズや腹ばいポーズなどの軽業を披露して観客から拍手喝采を浴びていた。
その後,たくさんの市民がアリーナの中に詰めかけ「祝餅投げ」,最後に赤バイ隊と消防自動車によるパレードがあった。
消防隊と言えば,新潟県中越地震での東京消防庁のハイパーレスキュー隊(消防救助機動部隊)の活躍で一躍有名になったが,消防団員の待遇は決して良いとはいえない。身分は,非常勤の特別職地方公務員であるが,高知市からの報酬は年間30,500円と少ない。ほぼボランティアである。平成24年4月における高知市消防団の団員数は,条例定数の90%にある816人。少子高齢化が急速に進む中で将来とも今の消防団組織を維持することができるのか心配である。
1月11日(土)
13時より第7回高校生橋梁模型コンテストが高知工業高校であった。四国高等学校土木教育委員会が主催し、高知県橋梁会と高知県建設系教育協議会の共催で開催している。
高知県橋梁会からは村田敦理事、前田秀夫会員と私が、教育協議会からは高知工科大学の五艘隆志先生が出席し、それぞれ審査員を務めた。参加高校は高知工業、宿毛工業、安芸桜ヶ丘、京都伏見工業の4校。出展模型は13橋であった。
審査は、模型強度、強度を質量で割って求める軽量指数、デザイン性を総合的に評価する。強度は2回の載荷試験で決める。載荷するのは制作者が事前に申告した荷重である。模型が1分間持ちこたえられれば、その荷重が認定される。最高強度は、一昨年が30kg、昨年が31kg、今年は43kg。先輩の経験が後輩に引き継がれ、創意工夫することで記録が塗り替えられている。
優勝は強度40kgの京都伏見工業の南出さんの作品に決まった。アーチ橋であった。接着剤を使用せず部材を接合するという驚くべきアイディアがあった。高知工業の山崎君と吉田君の共同作品は、50kgの荷重にしばらく耐えたが1分間持ちこたえられなかった。49kgでトライすれば大記録を樹立できた可能性がある。残念であった。
今年の作品は、実務者では思いもよらないユニークなデザイン性に優れた作品があった。若い人は頭が柔軟である。既成観念に囚われることなく自由な発想ができる。このような若者が力を発揮できる環境を作ってやれば、高知県の将来は明るくなると思った。
19時より坂本龍馬財団事務所で「ゼロの会」に参加した。「ゼロの会」とは、松崎武彦高知エコ基金を活用して、環境問題だけではなく産業、文化、教育、子育て、福祉、自治などをざっくばらんに学び、高知の未来を考えることを目的に昨年発足したもので、毎月11日の夜、勉強会が行われている。
松崎武彦氏は、通産省を退職後、2000年4月に高知県産業振興センターの研究開発コーディネーターとして高知に赴任され、2008年12月に逝去されるまで地域の活性化のために尽力されきた。特に、自然環境と森林の保護、バイオマス資源と森林の活用を両輪に据えて高知の活きる道を探っておられた。松崎武彦氏の遺産を原資とし、高知県のエコ推進の市民活動を助成・支援する目的で設立されたのが松崎武彦高知エコ基金である。
尊敬している森健志郎氏からゼロの会への参加を以前より勧められていたが、なかなか日程が合わず今回初めて参加させていただいた。
参加者は25名程度で会場は満席状態であった。森健志郎氏が「今なぜ龍馬か」といテーマで1時間レクチャーをされた。私がこの講演を聞くのは4度目であったが、何度聞いても飽きさせない話術には関心させられた。その後、参加者の自己紹介があった。住職、新聞記者、デザイナーいろいろな分野の人が参加していた。同業者では森直樹氏が夫婦で参加していた。多士済々である。会員が順番にレクチャーすることになっているようである。
1月6日(月)
仕事始め。会社で年頭の挨拶の後、巨大絵馬に全社員に今年の抱負・決意を書いてもらい、幹部社員で土佐神社に奉納する。
土佐神社への参拝と絵馬奉納は、平成21年の正月からずっと続けている。最初、私がホームセンターでベニヤ板を購入してきて絵馬の形に切っただけのざっとしたものであった。次の年には社員に製作をお願いした。参拝のお陰で会社経営が順調になったので平成24年からは大工に頼んでいる。ずいぶんと立派な絵馬になるとともに、社員の増加と共に毎年絵馬が大きくなっている。絵馬はすべて土佐神社の絵馬殿に保存されており、一般の参拝者にも見ていただいている。宮司から「参拝者が絵馬を見て第一コンサルタンツはすごい会社ですね,と言っていました」と聞き,とても嬉しくなった。
1月5日(日)
讃岐のこんぴらさんに連続9回目の初詣をした。海外旅行の疲労が残っていたが,8回続けてきた金比羅参りを絶やしたくないという思いで8時50分に自宅を出発。参道脇の食堂でうどんを食べ,本宮までの石段を785段一気に上る。そこで参拝した後,さらに583段上って1368段目にある奥社・巌魂(いずたま)神社を参拝する。登山口からここまでの所要時間は1時間。祈願の内容は,「第一コンサルタンツが日本一に向けてスタートの年になりますように」と「家族、そして社員全員が1年間健康で幸せでありますように」の二つ。神様,仏様,ヒンズーの神様,キリスト様,国内・海外どこであろうとも私の願い事は同じである。
金比羅参りを始めてから,全てが順調に進んでいる。私の願望が全て叶っている。金比羅参りは欠かすことが出来ない行事の一つである。
1月3日(金)
早朝,アンコール・ワットで日の出を観賞。春分の日と秋分の日には,アンコール・ワットの中央尖塔から太陽が昇るように設計されているが,冬には太陽が南に傾くため,南の森から昇る。アンコール・ワットのご来光を拝むため,日本人観光客が大勢集まっていた。ご来光をありがたがる文化を持っているのは日本人だけである。
午前はバイヨン寺院などがあるアンコール・トム遺跡を見学する。バイヨン寺院では,日本の資金で外回廊のシンハ像・ナーガ像の修復工事が行われていた。フランス人は手間を省くためコンクリートで修復しているが,日本人は元の石像と同じ石材を使用して丁寧に修復する。このため出来映えや耐久性に優れたものができるので日本人の評価は非常に高い。
午後はアンコール・ワット周辺の森を再生させ遺跡を守るため,東バライで記念植樹をする。これまでに植樹をした日本人の名前を書いた看板が立てられていた。私たち夫婦の名前も刻まれると思うと嬉しくなった。
シェムリアップの町からアンコールに行く途中,「コックチョウこうべゆめ小学校」の看板を見かけた。神戸夢ネットが330万円の寄付を集めて2005年4月に竣工した生徒数600人の小学校である。カンボジアには児童が多く学校が不足している。貧困から脱却するにも,経済を発展させるにも,平和を維持するにも教育が必要である。日本人の仕事ぶりや世界貢献に対する評価が非常に高いことを知り、日本人としてもっと誇りを持たなければと思った。→詳細
1月2日(木)
世界最大の旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」による「観光者が選んだ人気の観光名所」で毎年1位に選ばれるのが、カンボジアのアンコール遺跡かチリのマチュピチュ遺跡のいずれかである。
アンコール・ワットの外堀や建築物の規模にも圧倒させられるが,砂岩を精密に加工して組み立てられた建築物,回廊の壁面の美しい彫刻には度肝を抜かれた。
アンコール・ワットの後は,タ・プロム寺院,バンテアイ・スレイを見学し,最後にアンコール・トムの外堀でゴンドラ遊覧を楽しむ。
夜は,クメール料理を食べながらアプサラダンスショーを観賞した。→詳細
1月1日(水)
ホーチミン廟,一柱寺,文廟,ハンガイ通りなどハノイ市内を見学した後,ハノイ国際空港からカンボジアのシェムリアップ国際空港に飛ぶ。
ホーチミン廟には,ベトナム独立の父・ホーチミンの遺体が安置されており,休日の金曜日以外はたくさんの参拝者が列をなしている。廟の中に入るには飛行場と同じような持ち物検査を受けなければならない。廟の中に入ると、ホーチミンの遺体が安置されており,棺の四隅には4人の衛兵が直立不動の姿勢で護衛していた。遺体からは内蔵を取り出して毎日防腐処理が施されているようてある。
ハンガイ通りは東京の銀座のような通り。観光客向けのシルクの衣料品など高級品が売られていた。ルイ・ウィトンの店も見かけた。
今日は元旦なので,店先や住宅にはベトナムの国旗が掲げられていた。国旗は市役所から支給され,祝日など特別な日に掲揚することが義務づけられている。国旗の赤は独立運動で流した同志の血の色、星の黄色は東洋人の肌の色、星は仕・農・工・兵・商を表している。仕(し)とは知識人のこと。ガイドの塊(こい)さんは、実際には公・商・兵・工・農だと話していた。公とは公務員。賄賂をたくさん貰えるので裕福ということ。→詳細
12月31日(火)
ハロン湾を見学する前にハロン市場を見学した。ハロン湾で捕れた魚,大量の肉や野菜,トロピカルフルーツが売られていた。肉は牛肉,豚肉,鶏肉,アヒル肉,犬肉と種類が多い。日常生活に必要なものは衣類から食料まですべて売られている。営業時間は、朝の7時半から夜の6時半まで。ベトナムでは食料に事欠かないだろうと思えた。
ハロン湾では旅行会社がチャーターしたクルーザーで湾内を6時間かけてクルージングし、海の桂林と称される美しい景色を楽しんだ。ハロン湾には大小の奇岩が2000以上ある。
ハロン湾には漁業を生業とした水上村があり、小学校もある。筏の上に家が建てられている。台風で海が荒れても避難することなくここで生活している。
水上マーケットでは、大きなシャコエビ、ハマグリ、クエ、カブトガニが生け簀で飼われていた。カブトガニは、日本では絶滅危惧種1類で天然記念物に指定されている。それが1匹50ドルで売られていた。少し高いが買って、クルーザーでのランチの時に料理をしてもらった。量が多すぎて二人では食べきれない。ツアー参加者全員に召し上がっていただいた。
ハロン湾では、ティートップ島に上陸して頂上展望台からハロン湾全景の眺望やスンソット洞窟を見学した。
ハロン湾見学後はバスでハノイ市内に移動。ハノイ市内も建設ラッシュ、宿泊したハノイホテルの近くでも2棟のホテルが建設されていた。ベトナムは活気に溢れているという印象を受けた 。→詳細
12月30日(月)
正月休みを利用して東南アジアを旅行することにした。今年はアベノミクスの影響で久しぶりに景気が回復傾向にある。11月になって旅行会社に申し込んだのであるが、東南アジアに行くことができたのは、近畿日本ツーリストの海外ツアー「ホリデイ」の「ハロン湾6時間クルーズとアンコール・ワット第満喫6日間」のみであった。
ハロン湾は2008年5月に家族旅行していたが、3時間コースであり6時間たっぷりではないことと、アンコール遺跡を1度見学したいと思っていた。
中部国際空港を10時30分のベトナム空港で出発。ハノイ国際空港に到着したのは4時間30分後で,現地時間の14時であった。ベトナム,カンボジアと日本の間には2時間の時差がある。
ハノイ国際空港では,第二ターミナルの建設工事が行われていた。ベトナム北部の経済発展に伴い、急増する航空需要に対応するため、日本の円借款を活用したもので、大成建設とベトナム国営企業で同国最大手のビナコネックス社との共同企業体による施工で、工事価格は447億円。供用開始は2015年4月の予定。
空港からハロン湾までの距離は150km。高速道路もあるが制限速度は60km/h。一般国道はいたるところで拡張工事が行われており、バスでの所要時間は3.5時間であったる。
宿泊したハロンプラザホテの前のクアルック海峡には美しい斜張橋が架かっていた。日本のODA特別円借款によって清水建設、三井住友建設を主体とする共同企業体による施工で,2006年に完成したバイチャイ橋である。橋長1,106m,最大支間長435m,幅25m。ベトナムでは最初の1面吊りPC斜張橋。架橋当時は世界最大支間とてし土木学会田中賞を受賞している。→詳細
12月21日(土)
高新RKCホールで高知県主催の「震災に強い人・地域・ネットワークづくり講演会」があり、京都大学防災研究所の矢守克也教授が「南海トラフ地震を生き抜く」と題して講演をされた。
矢守教授のご専門は心理学による防災教育。阪神・淡路大震災で災害対応に当たった神戸市職員へのインタビューをもとに、吉川肇子氏(慶應義塾大学商学部教授)、網代剛氏(ゲームデザイナー)と共同で、カードゲーム形式の防災教材「クロスロード」を開発されている。
クロスロードとは別れ道のこと。カードには「3000人いる避難所で、2000食を確保した。この食糧を配るか配らないか」など、どちらを選んでも何らかの犠牲を払わなければならないような2つの問題が書かれている。災害時に遭遇しそうな問題を事前に話し合って考えておこうというもの。
2005年に全国で初めて高知県で「クロスロード・ファシリテータ研修(市町村職員等災害対応能力向上研修)」を実施している。
矢守教授の講演は、下記の4つの話題に関するものであった。
①東日本大震災の際、「奇跡の脱出」で園児90名と職員14名全員が津波から助かった岩手県野田村の野田村保育所の話
②津波が釜石市内を襲ったビデオ映像を見て、「津波が迫っている。逃げ遅れた年寄りを助けに行くか、そのままにして逃げるか」、「老人が今朝初めてあった人であれば」「老人が祖父であれば」などを想定して考えるクロスロードの問題。
③東日本大震災以前から津波防災教育に取り組んでいる四万十町興津地区の事例紹介。興津小学校がテレビで紹介されたときのビデオ映像と地元の防災組織「ぐるみの会」。
④黒潮町万行地区の住民からの聞き取り調査を基にして、津波来襲時における住民の避難のシミュレーション解析を行い、その結果より津波避難タワーを設置した。
12月17日(火)
札幌の寒地土木研究所で第3回共同研究「高エネルギー吸収型落石防護工等の性能照査技術に関する研究」があった。
冬の北海道は初めてであった。厚手の下着にカーディガンを着込み、さらに腰と腹にカイロを貼って万全の対策でやってきた。当然、ダウンジャケットも着ている。レストラン、電車、会議室、室内に限って言えば高知の我が家や会社の執務室よりもはるかに暖かい。上着はもちろんのことカーディガンも脱がないと暑くてたまらなかった。必要なのは外に出たときだけであった。
北陸では道路に散水式の融雪装置があるが、札幌の道路にはない。凍結するためである。北海道開発局が廃止され国土交通省になってから、全国的の高速道路に採用されている透水性舗装を北海道でも採用したところ凍結して舗装が持ち上がり、除雪車で舗装がやられてしまった。タクシーの運転手から聞いた話である。地域特性を熟知していないと失敗するという良い事例である。
会議には、25名が出席。14時から18時まで時間を延長して熱心に討議を行った。落石防護柵や防護ネットに関する産官学の専門家が全国から集結した研究会である。世界の競争に勝てる商品開発を目指した立派なマニュアルを作りたいものである。
会議の後、会場を中央区の居酒屋「はねもん屋本店」を移し、食事をしながら意見交換を行った。それにして、美味しい料理と飲み放題で一人3,500円という安さには驚いた。高知の建設業界では仕事が溢れているが、北海道はいつもと同じでそのような状況にはない。飲み屋は価格競争が厳しいようである。
12月14日(土)
日本技術士会四国本部役員会がサンポートホール高松53会議室で10時よりあった。13時30分からは54会議室で香川県例会があった。
CPDセミナーでは、香川大学危機管理研究センターの副センター長の岩原廣彦氏(技術士会会員)が、「地域の防災・減災に向けたメディアの役割」と題して60分間講演され、下記のことを主張された。
阪神大震災から18年経過し、震災を知らない神戸市民が4割を超えた。東日本大震災から2年9ヶ月が経過した。防災意識を風化させないためには、テレビや新聞、ラジオの役割が大きいが、「珍しさ」「新鮮さ」「身近さ」の3要素が欠落しているとニュースとして取り上げない。防災・減災の基本は住民自身がリスクから速やかに避難することである。地方大学が防災リーダーを養成し、住民の防災意識を啓発することが重要である。
公開講座では、自衛隊香川地方協力本部本部長一等陸佐の中村賀津雄氏が、「東日本大震災における災害派遣活動(生活支援)-派遣部隊長として」と題して60分間講演された。
中村氏は、2009年4月から2011年12月まで第6後方支援連隊長として、宮城県で被災者の救助や遺体捜索、被災者の生活支援捜査の指揮を執られている。そのときの体験に基づいて紹介していただいた。
自衛隊員が過酷な環境下で頑張れたのは、①指揮官が発した「先憂後楽」という司令、②被災者の「ありがとう」という言葉、③自衛隊の平素の教育訓練と服務教育、④戦力回復・メンタルヘルス施策など、であった。
自衛隊は、被災者に温かい食べ物を作ったり、風呂を設置したり、様々な活動をした。自衛隊の人々は、 冷たい缶詰を食べ風呂にも入らず、体をウェットティッシュで拭くだけだった。常に、被災者の気持ちを考えて行動した。家族が被災した隊員もいた。子供の遺体を発見すると自分の子供と重なり精神的に落ち込む隊員もいた。考え込まないように隊員同士で話し合いをさせたり、臨床心理士による精神的ケアー、2週間にⅠ回は自宅に帰すなど環境を変えて隊員の気分転換を図った。
最後に、是非読んでいただきたい本として、「東日本大震災 伝えなければならない100の物語3生きることを、生きるために」「東日本大震災と自衛隊、自衛隊はなぜ頑張れたか」の紹介があった。
孔子が編集した史書「春秋」の注釈書に「春秋左氏伝」(しんじゅうさしでん)がある。そこに「安きに居りて危うきを思う 思えば則ち備えあり 備えあれば患いなし」(やすきにおりてあやうきをおもう おもえばすなわちそなえあり そなえあればうれいなし)という言葉がある。「安泰なときに危険を考えなさい 考えることが備えになる 備えておけばいざというときに慌てずにすむ」という意味である。
東日本大震災からもうすぐ3年になる。津波が家や車ごと人々を飲み込んだあの悪夢のような光景を決して忘れることはないと思っていたが、私たちの記憶から次第に薄らぎつつある。危機意識を風化させないためには、被災経験や教訓を伝承していく災害文化を形成させなければならない。その意味で、今回のCPDセミナーと公開講座のような活動の意義は極めて大きかった。
12月11日(水)
平成25年度第3回目となる高知県橋梁会の研修会を高知会館で開催する。
今年はこれまで経験したことがないほど仕事が多い。入札辞退や不調が全国的に起きている。県内の測量設計会社は、どこも昨年同期の1.5倍の受注をしている。このような状況であるので研修会にどれだけ参加していただけるか心配していたが、会場が満席となる69名の参加があった。第2代目の会長で名誉会員の村山保先生も参加され、起立して質問をされた。先生は御年94歳である。研修会の後の忘年会にも45名の参加者があり、大盛会であった。
5つのテーマで講師は6名。講演料はおろか交通費も出さない研修会であるにも関わらず、東は千葉県船橋市、北は富山県小矢部市、そして西はアフリカのカメルーンから来ていただいた。有り難いことである。講師の皆様には、私の自叙伝「土木技術に魅せられて」を贈呈させていただいた。
特別講演をしていただいた京都大学の木村亮教授は、アフリカから関西空港、伊丹空港から高知空港へと乗り継いで会場に来られた。20年間に海外出張は207回、アフリカは64回というからすごい。
「今こそ発想の転換から生まれた新しい技術を開発しよう」というテーマで、「水平抵抗力が大きい斜杭」「地震に強い鋼管集成橋脚」「連続アーチカルバート盛土」「チェーンウォール工法」「NPO法人道普請人の活動」「アフリカの人々を幸せにする方法」などとても興味深い有益な話しをしていただいた。話しに引き込まれ90分の時間があっという間に過ぎていた。
アフリカから20数時間かけて高知まで来ていただき大変お疲れと思われたが、研修会の後の忘年会、さらには二次会と22時までお付き合いしていただいた。
12月1日(日)
家族でシンフォニークラシカに乗船し、日の出ふ頭からレインボーブリッジの下を通り、お台場を左側に見ながら東京灯標跡を回って日の出ふ頭に帰るという約2時間の東京湾ランチクルーズを楽しんだ。今年の夏に祐希を高知で二か月間面倒を見たお礼といって、和恵がプレゼントしてくれたものである。2階コンチェルトの席を予約してくれていたので、ビールやワインを飲みながらリッチな気分を味わえた。何よりも良かったのは、昨年の2月に完成した東京ゲートブリッジを見物できたことである。恐竜の形をした東京ゲートブリッジの勇姿は海上からでないと見ることはできない。
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