孤児たちのオモニ
田内基(たうち・もと=社会福祉法人こころの家族理事長)
『致知』2008年6月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
母が他界して今年で四十年の歳月が流れました。最近、韓国のテレビ局が母のドキュメンタリーを制作したり、古里の高知で顕彰の動きが盛り上がったり、その足跡が広く紹介される機会も増えてきました。
日韓両国の人々が過去の不幸な歴史を乗り越え、人間愛や平和について考えるよすがとなれば、天国の母も本望だと思います。
母の名は田内千鶴子(韓国名・尹鶴子)。戦後の韓国で孤児院を運営し、三千人の孤児を育てあげ、皆から「オモニ」(お母さん)と慕われ続けました。
日本人に対する迫害が最も激しかった時代、反日感情と貧しさに耐えつつ一人で施設を切り盛りする苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったことでしょうが、間近にいた私は、母が泣き言や愚痴を言う姿を一度も見たことがありません。
逆にどのような状況でも、信仰に裏打ちされた献身的努力を続け、孤児の幸せのためだけに人生を捧げ尽くした人でした。
昭和四十三年に五十六歳で亡くなった時、市民葬に三万人が参列しました。清貧に生きた無名の日本人の死を、これほど多くの人が悼み、号泣した例は韓国の歴史にあったでしょうか。
母は大正元年に高知県で生まれ、幼少期に朝鮮総督府に勤めていた父親に呼ばれて韓国に移ります。
そして二十六歳の時、ボロボロの身なりで孤児の救済に当たっていた韓国人キリスト教伝道師の父と出会い、結婚。
韓国南西部・木浦市内にある、孤児院とは名ばかりの廃屋同然の木浦共生園で、四、五十人の孤児と寝起きを共にしながらの新婚生活をスタートします。しかし、貧しくも希望に燃えた二人三脚の日々は長くは続きませんでした。
やがて訪れる朝鮮戦争の最中、父が食料調達に行ったまま消息を絶ってしまったからです。
以来、母は父の帰りを夢見ながら、一人で共生園の運営を続けます。父が帰るまでは何としても孤児院を守るという一念だったといいます。
動乱で親を亡くした孤児の数は増え続ける一方で、運営は困難を極めました。
建物の拡充も必要でしたが、差し当たり必要なのはきょう口にする食料でした。母自らリヤカーを引いて残飯を集め、役所を訪れては援助を訴えました。まるで物乞いです。
しかし母は周囲の雑音を意に介することなく、たどたどしい韓国語を話しながら小さな体で食料や資金の確保に走り回り、孤児を育てていくのです。
病気の子は夜を徹して看病し、ひもじい思いをする子には自分の食事を分け与えました。一緒に遊び、歌い、抱擁し、そして祈り、精いっぱいの愛情を注ぎました。
いつも温かい視線を注いでくれる母を、孤児たちはいつの間にか皆本当の母親のように
慕うようになりました。
戦後間もない頃、凶器を手にした村人が突然、共生園を訪れ、日本人である母の命を奪おうとしたことがあります。その時、孤児たちは「オモニに手を出させるものか」と一斉に母を取り囲んだのです。村人は無言のまま立ち去りましたが、母は後にこの時を振り返り、
「孤児たちが守ってくれた命。ならば、死ぬまで孤児のために命を捧げようと決意した」
と話していました。その言葉どおり母は終生、この誓いを貫き通すのです。
私も幼い頃からそういう母を見てきました。しかし私の幼少期はいい思い出ばかりではありません。日々の生活は食事も寝る場所も孤児と一緒。母は我が子を絶対に特別扱いしませんでしたから、近所の子から虐められて帰っても、悩みを打ち明ける場もないのです。
寂しさと悔しさでいっぱいになり、母ばかりか行方不明になった父すら憎らしく思ったことは数えきれません。
事あるごとに反抗を繰り返し、屈折した親子の関係はその後長く続きました。母と心を分かち合えるだけのまとまった時間がようやく持てたのは、亡くなる直前でした。
がんに侵された母を付きっきりで看病する中で、それまでのわだかまりが氷解していくのを感じることができたのです。
死の床で、母は「梅干しが食べたい」と呟くように言いました。当たり前のように韓国語を話しチマチョゴリを着、キムチを食べ、誰からも韓国人だと思われていた母が、意識朦朧とした状態で発した日本語でした。
この言葉を聞いた時、母の心の奥底にはずっと祖国への憧憬があったのだと気づいたのです。
母の死後、私は二十六歳で施設の経営を継ぎました。経営は火の車で資金面での苦労は絶えませんでしたが、多くの方々の協力で、共生園を軸に障害者施設、職業訓練校、保育所など幅広い福祉事業を展開することができました。大阪に在日コリアンの特別養護老人ホーム「故郷の家」を建てたのは平成元年のことです。
その後、大阪市生野区、神戸市に「故郷の家」を完成させ、今年十月、京都市の東九条に四番目の「故郷の家京都」を竣工します。
私は日本に来るとは夢にも思いませんでした。しかし、ある時在日のお年寄りの孤独死が
相次いでいるというニュースを耳にし、強い衝撃を受けたのです。祖国に帰ろうにも帰れず、親きょうだいを思いながら死んでいったお年寄りの姿が、異郷の地で「梅干しが食べたい」と言って死んだ母の姿と重なりました。
韓国語を話しキムチを食べながら安らかな死を迎えられる場を提供したかったのです。
母は五十六年の生涯で、国境を超えて愛し合う素晴らしさを身をもって示しました。
そして木浦の人々もまた日本人である母を心から愛してくれました。私が日本で福祉事業を営むのも、その恩に報いたいという思いゆえであり、それが母の願いにこたえることだと信じています。