若手技術者に伝えたいこと

私が心がけてきたこと

五十年の土木技術者人生で、「私が心がけてきたこと」、すなわち、「私の仕事の流儀」を紹介させていただく。

 

(1)約束の期限を守る

いい仕事をすることは良いことであるが、それによって約束の期限に遅れてしまえば、元も子もない。「骨折れ損のくたびれもうけ」になってしまう。

仕事が遅い人に共通していることは、相手が求めていない余分なことに多くの時間を割いていることである。

私は、仕事を頼まれたときには、初回の打ち合わせで「仕事の目的」「期限」を伺ってから、相手の要求に応えるには具体的に何をすべきかを考え、その内容を相手に伝えて確認するようにしている。

そして、約束の期限まで余裕があったとしても、頼まれたらすぐに仕事に取りかかり、とりあえず六〇点のところまで仕上げ、時間に余裕があれば完成度を高めるようにしている。このようにしておけば、例えアクシデントで予定が狂っても、約束の期限に遅れることはない。

 

(2)頼まれた仕事は断らない

私は、頼まれたことは、専門分野が多少異なっていたとしても、荷が重すぎると思えることでも、日程が被っているなどよほどの理由がない限り断らないことにしている。

難しい困難な仕事ほど、技術力を伸ばすことができる。そして、この経験を積み重ねることで次のステージに上がることができる。

失敗を恐れていては何もできない。勉強すれば何とかなる。人に聞けば何とかなるものである。何事もポジティブに、プラス思考でチャレンジしてきたことが、技術を磨き人脈を広げるうえで大きかったように思う。

 

(3)自分の目で直接確認する

地震や豪雨など災害が起きた場合には、時間の許すかぎり現地に行って、構造物の被害状況を調べるようにしている。

 新聞や雑誌、テレビなどで報道されていることは嘘ではないが、読者や視聴者の関心を引くのに都合の良い場面だけを切り取っているので、被害状況やその原因を正しく知ることはできない。

 阪神淡路大震災(一九九五年一月十七日)の報道を新聞やテレビで見たとき、神戸が全滅した印象を受けた。実際に現地へ行くと、被害の大きいのは特定の狭い地域であること、瓦屋根のトップヘビー構造の古い建物の被害が顕著であること、そこから少し離れると被害を受けてないように見える建物が多いことなど確認でき、新聞のイメージとは随分違うと思ったことであった。

 九二一台湾大地震(一九九九年)、新潟県中越地震(二〇〇四年)、熊本地震(二〇一六年)で共通していたことは、被害が顕著なのは活断層が地表に現れた周辺の幅一〇〇メートル程度の狭い範囲であることであった。

 道路擁壁の地震時の安定性は、技術基準では震度法によって照査することになっている。技術基準に準拠してきちっと設計された鉄筋コンクリート擁壁は耐震性能に優れ、石積みやブロック積みは地震に弱いかというとそうでもない。

新潟県中越地震では、プレキャストL型擁壁のたて壁の付け根が折れる現象が、関越自動車道の小千谷市の盛土部や若葉団地でたくさん見られた。破壊した擁壁を『道路土工・擁壁工指針』で照査すると、地震荷重に対して部材応力度は許容応力度以下という結果になった。

ブロック積み擁壁は、常時荷重で計算しても転倒や滑動の安全率が不足するはずなのに、ビクともしていない擁壁が多数見られた。

擁壁の構造よりも活断層からの距離や地形・地質の影響が大きいといえる。このようなことは現地に行かなければわからない。現地に行って、直接自分の目でどんなことが起きているのかを調査することが技術者にとって大切である。

 

(4)納得する仕事をする

私は、自分自身を納得させる仕事を心がけてきた。依頼者から

「マニュアルに書かれている」

「これが従来からのやり方だ」

と言われても、疑問をもてば、それに素直に従う気にならない。満足できる方法を考えて提案するように努めてきた。

とはいえ、仕事には期限がある。満足できないまま報告書を提出しなければならないことも少なくない。そのような場合には、その仕事を終えた後でも執拗に考え続けることにしている。すると、何かの拍子に突然アイディアが浮かび、問題を解決できることがある。数カ月かかることもあるし、十年くらいかかることもある。

人間の体は六十兆個の細胞からできていて、それぞれの細胞には三十億の情報が書き込まれた遺伝子が組み込まれている。思考を継続していると、眠っている遺伝子のスイッチがオンになり、これまで気づかなかった情報がどんどん入ってくるためである。

 

(5)情報を積極的に発信する

私は、擁壁設計や落石対策に関する技術情報や自身に関する個人情報を、雑誌や単行本、SNSなどを通じて積極的に発信してきた。

二十代のころ、勤務先の上司から、

「会社のノウハウを外部の人に話すのはよくない」

と言われたことがある。

 世の中は、「守り」の姿勢の人が大半である。、それでは自分を成長させることはできない。 情報を発すれば、その数倍の情報が集まってくる。専門書を出版すると、全国から種々の質問や意見が寄せられてきた。それに回答することで、私自身を成長させることができた。

SNSで自分の行動をさらけ出すと、見ている人は親近感を持ってくれるようである。それによって交際の輪が広がった。また、常に見られていると思うと、誉められるような行動をしようと意識するものである。

当社のホームページでは、社員一人ひとりの顔写真、資格、実績を公表している。これを家族や知人が見ている。誉められようと頑張るに違いないからである。

 

夢は叶う

 私の二十代の夢は、「風呂付きの家に住みたい」「金に困らない生活がしたい」であった。三十代になると、「論文を書いて発表したい」「本を書きたい」「技術士になりたい」と思うようになった。四十代には「博士になりたい」と思うようになった。気がつくと、すべてが叶っていた。

 私の周りにも若いころの夢を叶えた人は多い。その中に、一九七六年(昭和五十一年)にそれぞれ建設コンサルタントを創業した二人の知人がいる。F社のE社長とT社のT社長である。E社長の夢は、

「社員が幸せだと思える会社をつくる」

T社長の夢は、

「売上高が一千億円規模の会社をつくる」

であった。

 創業から四十三年が経った。今、二つの会社がどのようになっているか気になった。

 インターネットでF社のホームページをのぞいて見ると、売上高が十億円で社員数百三十六名の会社に成長している。E社長は会長に退き、ご子息が社長に就任され、「社員一人ひとりが活き活きと働ける会社」を目指して頑張っておられる。

一方のT社は、売上高三百四十九億円で社員数千九百名の大会社になっていた。T社長は平成二十一年に会長に退かれて、現在はN氏が社長に就任されている。

E社長とT社長の夢もほぼ叶っていた。

 あるとき、三十四年来の友人である橋口孝好氏から、

「右城さん、みんな自分の夢をもっていると思ったら、そうでもなさそうだね。うちのかみさんに夢は何かと尋ねたら、もっていないと言われたよ」

と、聞かされた。

橋口氏は、私と同い年である。中央の大手コンサルタント勤務を経て、私が第一コンサルタンツへ入社したのと同じ年に、構営技術コンサルタントを創業し、県内第二位の建設コンサルタント会社に成長させている。また、六十七歳のときに会長に退き、大学時代からの夢であった、トンカツの専門店「とんかつ源三」を経営されている。

 「夢は誰でも持っている。橋口氏の奥さんが変わっているだけだろう」と思って、私の家内に尋ねたところ、

「夢、考えたこともない」

という返事であった。

 二〇二〇年五月八日、わが社の若手社員三十五人を対象に、講演をする機会があった。冒頭に、

「皆さん夢をもっていますか?もっている人は挙手してください」

と質問した。手を挙げたのは、一人だけであった。「他人に話すほど大した夢はもってない」「明確な夢はない」のかも知れないが、「夢について考えたこともない」という人が結構多いように感じた。

 幼少のころは、みんな夢をもっていたと思う。成長するにつれて、夢は叶わないものだと諦めるようになり、夢をもつことがなくなったという人が多いのだろう。

 どうも、橋口氏や私が普通ではない、変わっているのかも知れないが、夢(ビジョン)をもたずに成功できるはずがない。

二〇一二年(平成二十四年)にノーベル生理学・医学賞を受賞された京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥教授は、「V&W(ビジョンとハードワーク)」(目的と目標をはっきり持ち、それに向かって懸命に働く)を座右の銘とされているそうである。

何のために仕事をしているのかという目的と、将来の目標をしっかりもち、それに向かって一生懸命に働くことが成功するうえで大事だと言われている。

 宗教詩人・坂村真民先生の言葉に「念ずれば花開く」というのがある。「△△になりたい」という強い願望を持ち、目の前のことに一生懸命取り組んでいれば、必ず夢や目標が叶うという意味である。

 このことは科学的にも説明できる。人体は六十兆個の細胞からなっていて、細胞の九〇パーセントは眠ったままになっているといわれる。強い願望を持ち続けていれば、眠ったままになっている細胞が次々と目覚め、今までは気づかなかった情報にも敏感に反応し、無意識のうちにそれがどんどん頭に入ってくるようになる。その結果、チャンスをつかむことができ、願望を実現させることができるのである。

 

人生には何ひとつ無駄なものはない

 私は、高校時代、医者の誤診で一年間入院した。同級生より一年遅れたことで人生に絶望し、ずいぶんとムチャなことをして遊んだ。その結果、希望した大企業には就職できず、県内の建設会社に入社してダム工事現場で測量、鉄筋や型枠の組み立て、コンクリート打設などの手伝いをすることになった。仕事が面白いとは思わなかった。わずか半年で退職し、一カ月間失業保険をもらいながら遊んだ。その後、田舎の町役場の臨時職員として農道の設計、数量計算、積算などの手伝いを三カ月間した。

 二年間も無駄な時間を過ごし、同級生たちから大きく出遅れたと思っていた。

 ところがそれらの経験は、どれも無駄ではなかった。建設コンサルタント会社で設計の仕事に携わったとき、現場作業や積算の経験がずいぶんと役に立った。委託業務を発注する人、現場で施工する人の立場に立って物事を考えることができる。私の大きな財産になった。

 三十五歳の時、第一コンサルタンツに転職した。会社に対する発注者からの信用は、予想以上に低かった。社員の技術レベルも驚くほど低かった。銀行の金利が六~八パーセントの時代に、一年間の売上高に匹敵する借金を抱えていた。いつ倒産してもおかしくない状態であった。「技術力なし、金なし、信用なし、あるのは借金だけ」。なんと酷い会社に入ったものだと、運のなさを悔やんだ。

 会社に高い技術力があることをアピールするため、高知県技術士会を設立したり、『中小橋梁の計画』を上梓(じょうし)して関係者に配布したり、高知県技術交流会を設立して勉強会を始めたり、なんとかしなくてはという思いで、がむしゃらに働いた。

 振り返ってみると、私の人生において最も成長したのは、この時期であった。

 「人生には何ひとつ無駄なものはない」と言われるが、本当にそうだと思う。そして、苦しいときほど成長するチャンスである。自分の未来を信じて頑張れば、必ず、「花がひらく」ときがやって来る。

 

心の財が第一

 私の過去には、「万事休す」と思ったときが何度かあった。

 二〇〇五年(平成十七年)は、私にとって厄の多い年であった。一月に父が心筋梗塞で突然他界した。その直後に私が、糖尿病で入院しなければならなくなった。運に見放された年であった。

その年の四月、『日経コンストラクション』に掲載していた私の記事に対して、読者からクレームが入った。一歩間違えば、会社の営業活動に差し支える問題に発展する可能性があった。

 その時、親身になって私を助けてくれたのが高校卒業以来ずっと親しくお付き合いさせていただいている同級生であった。

 七月には、娘が大きな交通事故を起こした。友人から借りて運転していた軽自動車が、スリップして対向車線にはみ出し、普通乗用車に正面衝突したのである。その軽自動車には自賠責だけで任意保険がかけられていなかった。示談交渉を私がするとなれば、仕事ができなくなる。困り果てていたときに助けてくれたのが、損害保険会社の代理店をされているOさんであった。私が高知に帰ってきた一九八六年からずっとお付き合いさせていただいている。

 これまで私が、脇目も振らずに自分の仕事に没頭できたのは、日頃懇意にさせていただいている友人や知人の助けのおかげである。つくづく思うことは、「心の財(たから)が第一」ということである。

日蓮上人が弟子の四条金吾に宛てた手紙の中に、次の言葉がある。

 蔵の財より身の財すぐれたり、

 身の財より心の財第一なり

 世の中で成功している人は、間違いなく「心の財」をたくさん蓄えている。心の財を蓄えるには、「徳を積む」こと、つまり、見返りを求めない善い行いを続けることである。

 当社の社長室には、「進徳修業」と書かれた額を飾っている。社屋の落成祝いに、高知県立中芸高校元校長の竹内土佐郎先生が自ら揮毫し、贈呈してくださったものである。

 中国の古典『易経』の中の一節、

「子曰く、君子は徳に進み業を修」

からきている。

 この額を毎日見て、「徳を積み、学問に励む」ことを心がけるようにしている。

 

一途に努力する者が成功する

 学業の成績がよく、優秀と言われる人が世の中に出て成功するかといえば、必ずしもそうとは言えない。むしろ、一つのことを一途に、愚直に続けた方が成功できるように思われる。

 私は、疑問に思ったことに対して納得できないと、次のステップに進めない不器用な人間である。しかも頭の回転が遅い。一つのことを理解するのに、他人の何倍も時間を必要とする。

 人並みより少し上を目指そうとすれば、やることを絞り込むしかなかった。気がついたら、擁壁と落石の問題に取り組んで、三十年以上の歳月がたった。

 私の周りには、ゴルフを楽しむ人が多い。私にはそのような時間的余裕がなく、休日は、ほとんど自宅に閉じこもるか出社して、文献を読んだり論文を書いたりしてきた。休日に家族と遊びに行っても、頭の中は仕事のことばかり考えていた。

 擁壁と落石の問題に根気よく愚直に取り組んできた。このことが、今日の成果につながっているとしか思えない。

 「運 鈍 根」という言葉がある。一つのことを根気よく愚直に続けていれば、必ずチャンスが巡ってきて、成功するという意味である。格言の中でこれほど的を射たものはないように思う。

 

今日の常識は、明日の非常識

 この歳になって、わかったことがある。「昨日の常識は、今日の非常識」ということである。このことは、「今日の常識は、明日の非常識」ということにもなる。私が、この業界に足を踏み入れて教わったことで、現在は否定されていることがいくつかある。

 一つ目は、橋梁である。軟弱地盤に多径間の橋梁を造ると、支点が不等沈下を生じる可能性がある。単純桁にすれば支点沈下の影響を受けないが、連続桁にすれば沈下による曲げモーメントが主桁に発生し、応力度が部分的に過大になる恐れがある。こうしたことから、軟弱地盤に造る橋梁は、単純桁構造にすることが常識だと教わった。

最近では、単純桁は地震時に落橋する恐れがあるため、連続桁にしなければならないということが常識になっている。

 二つ目は、橋脚の設計の考え方である。山岳橋梁は、地形の傾斜で橋脚の高さが大きく変化する。上部構造に作用する地震時の慣性力が、各橋脚に等分に伝達すると仮定すれば、背が高い橋脚ほど柱の根元に作用する曲げモーメントは大きくなる。

最近は、各橋脚の天端の水平変位を同じとする考えが常識になっている。そう考えると、背が高い橋脚ほど作用する慣性力は小さくなり、柱根元の曲げモーメントは逆に小さくなる。

 三つ目は、鉄筋コンクリート構造物の配筋方法である。徳島大学の工業短期大学部に通っていたころ、コンクリート工学の日本的権威であった荒木謙一教授に、

「主鉄筋と配力筋のどちらを外側に配置するのが正しいでしょうか」

と質問した。教授は、

「主鉄筋は外側に決まっている。外側に配置すれば、有効高を大きくとることができ、経済的な設計になる」

と明快におっしゃられた。最近では、「構造的に大事な主鉄筋は内側」が常識となっている。まったく逆である。

 二〇一八年(平成三十年)にノーベル医学生理学賞を受賞された本庶(ほんじょ)佑(たすく)博士が、受賞発表後の記者会見で、

「書いてあることを簡単に信じないこと。『ネイチャー誌』や『サイエンス誌』に掲載されている論文の九割は嘘。十年たって残っているのは一割。自分の目で確かめ、自分の頭で考えること」

本庶博士のメッセージは、土木技術者にも当てはまる。技術が進歩すれば、常識も変わる。技術マニュアルに書かれていることが絶対的に正しいと思ってはならない。真実は、神様以外、誰にも永遠にわからないのである。

 自分の頭で考えることなくマニュアルに頼って仕事をする技術者が増えている。その方が楽であるし、もし間違っていても責任逃れができると考えているからだろう。

しかし、それでは技術を伸ばすことはできない。私はマニュアルを鵜呑みにせず、マニュアルができた背景、前提条件を調べ、納得しないと信用しないことにしている。

 定説になっている理論であっても、現場で実際に起きている現象をうまく説明できないものは改めるべきである。前提条件やモデル化が不十分か、基本的に間違っているかどちらかである。

 頭で考えてわからないことがあれば簡単な実験をすることにしている。立派な設備がなければ実験できないと思われがちであるが、大概のことは工夫すれば身近にある材料を使って実験できる。